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能登から紡ぐ谷泉──“鶴野酒造店”14代目が探す「私たちらしさ」

鶴野酒造店

更新日:2025年10月17日

能登を形にする──兄妹で紡ぐ230年の酒蔵物語

 石川県鳳珠郡能登町鵜川(ほうすぐん・のとちょう・うかわ)にある“鶴野酒造店”14代目蔵元で蔵人の、鶴野晋太郎(つるの・しんたろう)です。妹で杜氏の鶴野薫子(つるの・ゆきこ)とともに酒を醸しています。うちの蔵は、1789〜1804年の間に創業し、代表銘柄は「谷泉(たにいずみ)」と「登雷(とらい)」。石川県内で唯一、兄妹で蔵元と杜氏を務めている酒蔵です。  私にとって日本酒は、「能登を形にする私の作品」です。一本一本の酒には、能登の物語と、私の想いが静かに息づいています。目に見えない風の流れや朝露の気配、土の匂いまで意識を向けながら、この土地と向き合ってきました。酒造りは、自然を支配することではなく、自然と息を合わせ、ともに生きること。四季の移ろい、米と水の気分、発酵の立ち上がりに漂う香りや、かすかに響く音。そういうすべてに耳を澄ませながら、酒を育てています。  自然は思い通りにはならず、時に私たちの都合などお構いなしに振る舞います。だからこそ私は自然を深く信じていますし、思い通りにならないからこそ、そこに酒造りの面白さがあると感じています。

鶴野酒造が醸す「谷泉」「登雷」

港町を飛び出し、見つけた「帰る理由」

 家業は230年以上続く酒蔵です。若いころの私は、小さい港町で育ったこともあり、「鶴野酒造の息子」という目で見られることに、敷かれたレールの上に乗ることを求められているように感じ、まるで自分の未来が、すでに決まってしまっているような感覚がありました。  だから一度、まったく畑違いのIT業界へ就職しました。今振り返れば、その時間を酒蔵で修行にあててもよかったのかもしれませんが、当時は家業に反発していた時期でもありました。  ただ、大きな組織の中では、自分の考えややりたいことをすぐに形にするのは難しく、どうしても時間がかかってしまう。東京で過ごした7年を経て、実はすぐそばに、自分のやりたいことを形にできる環境があったのだと気づきました。  東京に出たからこそ、先祖代々続けてきたことの価値や、この町が自分にとってどれほど大切な場所であるかを、改めて実感しました。

能登のすべてに、日本酒が息づく

 日本酒というものは、地元の暮らしに深く寄り添っています。  たとえば能登では、お祭りや祭礼がとても盛んで、各地区ごとに大きな祭りがあります。能登町でも「にわか祭り」という祭りがあり、高さ7メートル、幅5.4メートルの「にわか」と呼ばれる大奉燈9基が、鵜川の町中を勇壮に駆け巡ります。  こうした神様へのお供えや、観光客を迎える場にも、日本酒は欠かせません。「能登のすべてに日本酒が関わっている」そう実感したからこそ、この地に息づく日本酒文化を、これからも残していかなければならないと強く思うようになりました。

一瞬で崩れ落ちた、230年の歴史

 2024年1月1日。午前中は酒母を仕込み、午後は休みを取って家族と出かけていました。 16時10分、車で穴水町を走っているとき、突然の激しい揺れに襲われました。  すぐに自治体から津波の避難指示が出され、高台でおよそ2時間を過ごしました。避難指示が解除されて町に戻ろうとしましたが、土砂崩れで道が寸断されており帰ることができません。その夜は、蔵がどうなっているのか不安で胸が苦しく、眠れぬまま過ごしました。  翌朝、がれきの間を縫うように車を走らせ、ようやく辿り着いた蔵は、無残にも崩れ落ちていました。家も蔵も一瞬で姿を失った光景を前に、言葉を失いました。あの時、「もう酒造りは続けられない。やめるしかない。これからどうやって生きていこう」そう絶望していました。

震災により倒壊した鶴野酒造

暗闇のなかで差し込んだ、蔵元仲間からの光

 避難所生活はおよそ3か月続きました。鵜川の町は建物の多くが倒壊し、多くの人が避難所で暮らしていました。私も避難所の運営を手伝いながら、町の見回りやさまざまな支援活動に追われ、本当に生きることに精一杯の日々でした。体育館に敷かれた薄い布団、夜通し消えない明かり、眠れない日が続きました。食事も限られ、体も心も削られていくようでした。  そんななか、白山市の吉田酒造7代目・吉田泰之(よしだ・やすゆき)さんや、金沢市の福光屋14代目・福光太一郎(ふくみつ・たいいちろう)さんなど、蔵元の方々から電話がありました。 「酒造りはうちの蔵を使っていい。まずは生きることを考えろ」その言葉を聞いた瞬間、涙が止まりませんでした。ずっと張り詰めていた心がふっと解け、「まだやれる。まだ続けられる」という気持ちが、胸の奥から湧き上がってきました。

水と資金、そして津波リスク──再建への壁

 地元に寄り添いながら230年以上続けてきたからこそ、これまで蔵があった場所に再建したいという気持ちは強くあります。地元の方々からも「早く帰ってきてほしい」という声をいただきます。  しかし、そこには大きな課題があります。これまではすぐ近くの山水を仕込み水として使ってきましたが、震災以降、その水質が悪化してしまいました。日本酒は米と水が命であり、大量の水を必要とします。再建にはおよそ10億円がかかり、蔵も設備も一から整えなければなりません。その資金を返していくためにも、1日2トンの水を安定して確保できる場所が不可欠です。  さらに、海に近い立地には津波のリスクもあります。ハザードマップが更新されれば、この場所が危険区域に指定される可能性もあります。「この地で再建するのか、それとも移転するのか」答えはまだ出ていませんが、状況に応じて柔軟に判断していきたいと思っています。

学びを力に、再建の日まで

 今では全国各地の酒蔵で共同醸造をさせていただき、さまざまな場所で酒造りに携わっています。妹と二人で同じ蔵に入るのは難しいため、それぞれ別々の蔵で活動しています。昨年は長崎県や石川県の蔵で酒造りを行いました。仕込み米や酵母は石川県産で、これまで使い続けてきたものを持ち込み、今までとは違う場所での酒造りであっても、鶴野の酒としての軸を守りながら醸しています。

震災を越えて、共に酒を醸す──共同醸造の現場にて

 酒造りには毎年同じサイクルがあり、通常は自分の蔵にこもって作業をします。そのため、環境はどうしてもクローズドになりがちです。震災がなければ、こうして全国の蔵で酒造りをする機会はなかったかもしれません。今はこれを大きな学びの場と感じています。  日本酒業界は少しずつ衰退の兆しがあります。だからこそ、酒蔵同士が手を取り合い、業界を盛り上げていく必要があるという想いも強く、蔵元同士の交流を大切にしています。酒造りのシーズンが終わるとイベント出展が多く、終了後には蔵元同士で情報交換をすることもよくあります。ただ、その場で聞いた話を実際の現場で見て、自分たちの経験として蓄えられるのは、何よりの財産です。  こうした学びは、現場で肌で感じてこそ、自分の知識として定着します。各地の蔵に受け入れてもらうのは申し訳ない気持ちもありますが、今は自分たちにとっての大切な勉強期間だと捉えています。この経験は、蔵を再建したときに必ず活きると信じています。

能登の酒を絶やさぬために。福光屋で取り組む共同醸造

伝統の「谷泉」から広がる、挑戦の酒造り

 今、鶴野酒造では二つの軸で酒造りを考えています。ひとつは、代々受け継いできたレシピで醸す「谷泉」。変わらぬ味を待ち望んでくれている方々のために、石川県産の米と酵母を使い続けています。  もうひとつは、新しい味わいへの挑戦です。能登のお米を使い続けることを大切にしながら、醸造方法や原料を工夫し、これまでにない表情の酒を生み出していきたい。自分たちのコンセプトや軸はぶらさず、常に挑戦を重ねていきます。

ブランディングの答えを探しながら、日本で愛される酒へ

 能登の米と水を使うことは、大前提です。しかし、それだけでは差別化が難しい時代になってきています。  では、私たちらしさとは何なのか。正直なところ、自分たちの酒をどうブランディングしていくべきか、まだ模索しています。  それでも、まずは地元で、そして日本全国で愛される酒を造ることを目指します。それが叶って初めて、世界に目を向けたいと考えています。  今年、2025年9月には「若手の夜明け」というイベントへの出展をしました。多くの方に鶴野の酒を知っていただくきっかけに、いただいた声や反応を糧に、次の挑戦へとつなげていきたいと思っています。

震災が気づかせた酒造りへの愛と、継承への決意

 純粋に、僕は日本酒造りが好きです。 震災が起こる前は、正直そこまで強く意識していなかったかもしれません。あの震災で被災し、酒造りができない状況になったとき、一度は絶望しました。けれど、各地の蔵に入れてもらい、久しぶりに仕込みに関わったとき、「酒造りができるって、こんなに幸せなことなんだ」と心から感じました。自然と笑みがこぼれ、辛い状況のはずなのに不思議と心が満たされていました。  共同醸造でお世話になった蔵の方々からも、「鶴ちゃん、本当に楽しそうに仕事するよね」と、どこでも言われました。それは、自分でも驚くほど素直に「幸せだな。楽しいな。」と感じながら作業していたからだと思います。  震災がなくても、日本酒造りは続けていたと思います。でも、ここまで強く「好きだ」とは感じなかったかもしれません。いいお酒ができた瞬間など、時々は感じていたでしょうが、この純粋な想いは、震災を経験したからこそ生まれたものです。  もう一つ、強く思っているのは、日本酒造りの文化を残していかなければならないということです。 僕の場合、ここまでやってこられたのは母のおかげです。母は、幾人もの先代から僕まで酒蔵をつなぎ、残してくれました。父が他界し、一時は製造量が落ちて苦しい時期もありましたが、その時も母が必死に頑張ってくれた。その姿を見てきたからこそ、この文化を、そして母が守ってきたものを、次につなげて残したいと思っています。

伝統の技を受け継ぐ、鶴野酒造の麹づくり

鶴野酒造がつなぐ、能登の未来と人の縁

「まずは日本で愛される酒を」。それが叶って初めて、海外へ目を向けたいと思っています。  いい酒を造って注目されれば、能登に足を運んでくれる人が増える。観光や移住のきっかけになるかもしれません。  2024年1月の能登半島地震から1年半が過ぎ、復旧は少しずつ進んでいますが、復興はまだこれからです。東京のイベントで「もう復興したんでしょ?」と聞かれるたび、現実とのギャップを痛感します。だからこそ、これからも現状を伝え続けたいと思っています。  能登の酒を選んで飲んでもらうこと、イベントで能登のブースに立ち寄ってもらうこと。そうした小さなきっかけを積み重ね、いつでも戻ってきたいと思える魅力ある場所にしていきたい。たとえ今は小さな一歩でも、日本酒を通して能登の魅力を伝え続けたいです。  そして、その酒をきっかけに訪れる人が増えれば、これほど嬉しいことはありません。  もし、うちが全国で注目されるような酒を造り、その評判で観光客が能登に来るようになれば、「この町に住みたい」と思ってくれる人も出てくるかもしれない。そんな未来を実現したいと強く思っています。

東京・日本橋で開催された「SAKE PARK」に遊びに行きました!(撮影:高橋 唯)

事業者プロフィール

取材後記

 能登各地を巡った私の能登取材最終日、最後の取材は鵜川町。かつて鶴野酒造店があった場所に向かいました。地図に表示された場所に到着したものの、建物は跡形もなく、本当にここで合っているのか少し戸惑いました。実は記事のトップ画像で鶴野さんが立たれているのは、まさに蔵があった場所でした。  程なくして鶴野さんにお会いし、車中で取材をさせていただきましたが、淡々と語る姿が印象的でした。  230年以上続いた場所を失う悲しみは計り知れません。それでも、立て直そうとする強い想いと、伝統を守り抜こうとする姿勢はとてもかっこよく映りました。  2025年7月上旬の取材後、7月中旬に日本橋で開催された「SAKE PARK」に鶴野酒造店が出展するとのことで、足を運びました。改めていただいた谷泉は本当に美味しく、取材時とはまた違った鶴野さんの表情を見ることができ、素直に応援し続けたいと感じました。これからもイベント出展があれば、ぜひ足を運びたいと思います。

高橋 唯(たかはし・ゆい)

 IT企業でBtoBの法人営業・広報業務を経験後、PR代理店の広報部にてインターナルコミュニケーション施策、社内報制作、プレスリリースやメディアリレーション構築に携わる。  都内で開催された能登を感じるイベントに参加したことをきっかけに、実際に自分の目で能登を見て、地域の方と直接話したいという想いから、本企画にプロボノライターとして応募。

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