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二次避難者の相談窓口から復興の地域づくりへ──“ひなさぽ”の次のステップ

避難者・被災者支援サポートボランティア(任意団体)ひなさぽ

更新日:2025年10月20日

ひなさぽの初期の相談窓口で二次避難者の相談に応じる小家伸吾さん(撮影:2024年2月 ひなさぽ提供)

 私、小家伸吾(こいえ・しんご)は、珠洲市若山町に実家があり、少し離れた飯田町で整体院を開いていました。しかし、2024年元日の地震で、どちらも建物として使えなくなってしまいました。  現在は、妻の実家がある金沢市内に住居兼店舗を建て、整体院を続けています。私自身の生活再建は、加賀地域で二次避難をしながら進めていましたが、同時にしていたのが“ひなさぽ”につながる支援活動です。まず、その経緯を私からお話しします。

二次避難先のホテルで困りごとに対応

 私が珠洲の一次避難所から加賀の二次避難所に移ったのは2024年1月18日。温泉旅館ホテルに、私と父の家族のほか、珠洲や輪島からの避難者がどんどん集まり、そこに一般の旅行客も混じっているような状況でした。  当時は北陸新幹線の金沢ー敦賀延伸が迫るタイミングで、この旅館での避難者受け入れは3月14日までとされていました。しかし、そうは言われても帰るところがないのにどうすればいいのだろうと困っている人たちばかりでした。  そんななか、私はインターネットが得意な方だったので、SNSに上がっている情報をまとめて一緒に避難しているおじいちゃん、おばあちゃんやネットを使えない人たちに伝え始めていました。避難に関して今こういう募集があるよとか、今後はこうなっていきそうだとかのちょっとした情報でしたが、すごく喜ばれました。  そこで、2月のはじめに「もし僕でよかったら相談にのります」という感じで避難所に窓口を作りました。窓口といっても机と椅子を置いて手描きのポスターを張ったぐらいでしたが、旅館の人に許可をもらい、館内アナウンスで紹介してもらったら、本当に長蛇の列ができるほどになったんです。

小家さんが最初に相談窓口を設置したときの様子(撮影:2024年2月4日 小家さん提供)

SNSで発信すると各地から協力者が

 相談内容は多岐にわたりました。息子に連絡を取りたいけれど連絡手段がわからないとか、けがをした母親がヘリコプターで緊急搬送されたけれど連絡の取りようがないとか、罹災証明をどうやって取ればいいかとか、火災保険はどうしたらいいかとか、とにかくどうしたらいいかわからないとか……。  その年代ならではの悩みというのがあって、それを私が聞いて家族の間に入り、「じつはこんなふうに今後のことを考えていらっしゃいますよ」と代わりに電話することも。すると家族のなかで話がグッと進むきっかけになり、各家庭でこうした問題を抱えているんだなと肌で実感しました。そこまでできたのは、私が整体院で普段からおじいちゃん、おばあちゃんとコミュニケーションを取っていたことや、介護福祉士の資格を持っていたからかもしれません。  相談の時間は1回2時間ぐらいと決めていましたが、周辺の他の旅館でも絶対同じように困っている避難者がいるだろうと聞いてまわってみたら、「じゃあお願いします」と言われ、窓口はどんどん広がっていきました。そんな活動をSNSで発信すると、興味を持って実際に窓口を見に来てくれる方も現れました。それが坂井さんや遠藤さんたちです。

最適な「組織化」を支援するために合流

 はい。私、坂井理笑(さかい・りえ)は石川県白山市出身で、東京に一度出てから夫の実家のある能登で自然に関わる仕事をしようと、最初は穴水町に住み、昨年の震災当時は珠洲市に住んでいました。  ですから私も被災者の1人ではありますが、SNSで情報を集めるなかで小家さんの発信を知り、同じ珠洲の人が避難所で頑張っていらっしゃるんだなと、私もSNSで「応援しよう」と呼び掛けました。すると反応がよかったので、同時にこれは「組織化」をしないといけないなと思いました。

ひなさぽの活動を振り返る坂井理笑さん(撮影:加藤直人)

 私はメディアアート系の仕事を通して組織論に興味を持ち、「ホラクラシー」についての本を読んでいました。ホラクラシーとは、明確な上下の階級を設けず、誰もが意思決定できるフラットな組織体制のことです。  今回の小家さんの活動も、誰かが全部1人で取り回すやり方では持たないだろうと思いました。何かをやりたい人たちが集まってくるとして、それぞれがどんな責任範囲を持っているかを明確にし、決断はその人に全部任せる。何かぶつかった場合は調整をして、あなたの範囲はここからここまでだからそれ以外は手を出さないでとはっきりさせる。私はそうした組織化の支援をしようと思って小家さんの元に向かいました。  初めてお会いした小家さんに、私は「ホラクラシー組織でやりましょう」と提案しました。小家さんは「よくわからないけれど、それでやりましょう」と(笑)  実際にそのころ集まっていたのは事務のできる人、デザインのできる人、情報をまとめるのがうまい人……。その人たちに会計の権限、デザイン周りの権限、アポイントの取り仕切りなどを任せて、自律分散で動いてもらいました。

初期の活動でボランティアメンバー募集を呼び掛けた画像(ひなさぽ提供)

奥能登豪雨でマップ作りや子育て支援も

 そうしたメンバーたちの活躍で、相談窓口は2024年3月末までに計33カ所で設け、延べ300人以上の相談を受け付けました。その後、相談窓口の情報を発信していたFacebookページの名称を「ひなさぽ ぷらっとほーむ」とあらため、被災者支援情報の発信や外部連携なども本格的に始めました。同年9月の奥能登豪雨では、珠洲や輪島の細かい町名や地区名を入れたマップを作って公開し、ボランティアの皆さんに喜ばれました。

奥能登の細かい地名を入れた地区分けマップ。作成は、ひなさぽメンバーの坂本のどかさん(ダウンロード https://drive.google.com/drive/folders/1N1TvKRMylF6OFxW6FOltom46fs_3PHvw)

 私もメインの役割を子ども支援に移し、豪雨で幼稚園の園庭などが使えなくなった園児を対象とした自然体験支援プロジェクトなどに取り組みました。現在は奥能登地域で母親たちが妊娠や子育てにどのような悩みを持っているかのアンケート調査をしています(2025年10月13日に締め切り)。「出産場所が遠くて不安に感じる」といった母親たちのリアルな声をまとめ、今後の地域づくりに生かしてもらえるような資料を作成するのが目標です。  また、毎月17日は「ひなさぽの日」としてオンライン会議を開いています。参加できる人だけが参加して、今こういうことをしていると共有したり、雑談したりする場。オンラインのお茶スペースのような感じです。  日常時はこうしたおしゃべり空間で交流し、非常時にはボランティアとしてまとまって活動する。こんな場がいろんな形でできれば、災害や復興支援のためだけではなく、地域で暮らす人たちの幸せ度を高めるものになるのではないかと思っています。

奥能登豪雨で園庭が使えなくなった園児を対象とした自然体験支援プロジェクト(撮影:2024年11月 ひなさぽ提供)

山形での経験をいかせないかと石川へ

 私、遠藤正則(えんどう・まさのり)は、山形県で福祉の仕事をしながら災害ボランティア活動をしています。東日本大震災のときは地元の中間支援組織の専従スタッフとして、広域避難者支援や復興ボランティア支援のために4年間活動。そこで山形県内でも避難者を支援するグループができるのを見て、そうした人材は地元にいるものだと実感しました。  そんななかで能登半島地震が起こり、SNSで小家さんの発信を知りました。小家さんとまったく面識はありませんでしたが、私の経験が役に立つのではないかと思って2024年2月12日に山形から車で石川入りしました。  相談窓口を開いていたホテルでお会いした小家さんは、ひと目でとてもいいボランティアだとわかりました。  お年寄りはネットを使えませんし、一方で役所に電話してもコールセンターのような事務的な受け答えで終わってしまいます。お年寄りの病態などは、実際に様子を見ないとわかりません。だから小家さんのように福祉に関わったことのある人が、リアルに対応するというのはすごく大事なことなんです。  しかも二次避難ではホテルの個室にバラバラに入ってしまい、なおさら一人ひとりの様子がわからなくなってしまいます。小家さんが二次避難の当事者というのは大きかったと思います。

初期の相談窓口での小家さんと、山形から応援に駆け付けた遠藤正則さん(右)(撮影:2024年2月 ひなさぽ提供)

避難者を行政や弁護士らにつなぐ役割

 現場には既に坂井さんたちがいて、ホテルに電話をして避難者がいるかどうか、相談会を開けるかどうかを調べる人、チラシを配れるとなったらすぐにチラシを作るデザイナー、それを現場に届ける人──といった役割分担ができていました。  私が特にすごいと思ったのは、相談された内容がすぐにオンラインで共有されていたことです。こういう悩みごとがあって、解決策としてこういうことを案内したといった内容がまとめられ、そのまま相談員のマニュアルになっていました。  ただ、相談員としてはあまりにも重い相談を受けると、避難者の未来まで背負うことになるのではと心配してしまいます。そういう場合は役所や弁護士、行政書士などの相談窓口を紹介することになりました。  役所などにとっても、事前にこういう避難者の相談ごとがあって、こういう制度が使えそうだということを、ひなさぽでいったんまとめておくことはメリットがあります。避難者が直接、役所で一から話をしても役所の時間が取られるだけですし、避難者も頭が混乱してしまいます。事前にだいたいの知識を頭に入れておけば、役所や弁護士の相談会に行っても話が早く進むもの。ひなさぽの相談窓口には、そんな役割もあったと思っています。  私は自分の独自の活動を含めて4日間ほど石川で活動して山形に戻りました。その後はSNSを通じて現地のメンバーをサポートしています。  結局、東日本大震災の経験から役に立ったことはありませんでした。東北との比較を話すとジャマになりますし、過去の経験にとらわれていると実際の支援にはなりません。今後もちょっとお手伝いというか、石川に根付いてやっている人たちと一緒に何かできればと思っています。

意味と形を変えながら続く活動

 以上、ひなさぽの活動を小家がまとめますと、私が1人で相談窓口を開いたのが第1期あるいは黎明期、坂井さんや遠藤さんが手伝いに来てくれて組織化されたのが第2期、その後、相談窓口以外に活動が展開されたのが第3期といえます。  私自身は、当初期限とされていた2024年3月14日で二次避難所を出ると決めていたので、いったん兄のいる京都に引っ越して自分の生活再建に集中させてもらいました。その後も一応、ひなさぽの代表という立場にはありますが、実際の活動は坂井さんほか30〜40人のメンバーが続けてくれています。  ひなさぽの名前も最初は主に「避難者のサポート」という意味でしたが、旅館やホテルから避難者が減っていくなかで、被災者全体に「ひなた」のようなサポートをしよう、「笑顔の種まき」をしようと、あらためてみんなで確かめ合いました。こんなふうに、ひなさぽは意味や形を変えながら続いています。  現在は、オンラインでの心理相談ができる人、ホラクラシー組織体制作りに興味があり、オンライン会議の内容をまとめるBOT開発をしてみたい人などを必要としています。興味があればぜひFacebookページから連絡して、まず月1回のオンライン会議に参加してみてください。

小家さんが金沢で再開した整体院で、ひなさぽの活動を振り返る小家さんと坂井さん(撮影:2025年7月25日 加藤直人)

事業者プロフィール

避難者・被災者支援サポートボランティア(任意団体)ひなさぽ

代表者:小家伸吾

取材後記

 自身の被災体験から支援活動までを淡々と語る小家さんに、私は何度も「どうやって自分のことと他の人への支援を両立していたのですか?」と聞きました。  小家さんは「自分のこともしていたけれど、そんなに計画立ててやってはいなかったので、空いた時間を人のために使っていました。同じような立場の人が相談にのることで、たとえ問題が解決しなくても安心はしてくれる。それがやりがいでした」とまた淡々と答えられました。  一方で、今は金沢を拠点とし、能登と距離ができてしまっているのも確か。今後の能登との関わりについて聞くと、小家さんは少し考えたあとに「僕が得意な健康の分野を生かしながら、能登でも活動できることをしていきたい」と一言。すると、隣で聞いていた坂井さんがすかさず「待ってるよ!」。ひなさぽ「第4期」の始まりを予感させる掛け合いでした。

関口威人(せきぐち・たけと、ジャーナリスト)、加藤直人(かとう・なおと、カメラマン)

関口威人  1997年、中日新聞社に入社し、初任地は金沢本社(北陸中日新聞)。整理部記者として内勤を終えたあとに片町や香林坊で飲み歩き、休日は能登や加賀をドライブで走り回りました。現在は名古屋を拠点とするフリーランスとして、主にヤフーニュースと東洋経済で防災や地域経済などについて執筆しています。 加藤直人  三重県伊勢市出身、在住。地元の行事やモータースポーツを被写体としながら、地域防災活動にも取り組み、能登では特に技術系ボランティアの活動を追い掛けてきました。現在は伊勢神宮の2033年の式年遷宮に向けた各種行事も記録しています。

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