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娘にダンスを、英会話教室を──美容師が傾聴する子育て世代の小さな声“TORANI HAIR”

美容室TORANI HAIR(トラーニヘア)

更新日:2025年5月26日

「魚影を追って能登半島へ」たどり着いた理想郷

珠洲市折戸(おりと)町で美容室「TORANI(トラーニ)」を経営している吉井謙太(よしい・けんた)です。金沢で24年間、美容室を妻と営んでおり、2021年10月にこちらで2号店としてオープンしました。平日は珠洲、土日は妻が働く金沢の店で、という二拠点生活です。  もともと海と釣りが大好きで、2008年ごろから珠洲に通い始めました。福井、富山、新潟といろいろな釣り場を巡ったなかで、能登半島の先端にたどり着いたんです。ここは富山湾の冷たい水と対馬からの暖流がぶつかる場所で、餌も豊富で魚影が濃い。釣り好きなら誰もが憧れる、本当に素晴らしい海なんです。

TORANIのすぐすぐそばに広がる海(TORANI HAIRのInstagramより 撮影:吉井謙太)

 青物から底物まで何でも釣れます。沖に出れば高級魚と言われるような魚もたくさんいますし、素潜りで貝を採ることもできます。小型船舶免許も漁業権も持っているので、午前中は海で好きなことをして、昼から仕事という生活ができるのが珠洲の魅力ですね。  40歳を過ぎて、金沢の店も軌道に乗ってきたころ、コロナ禍で立ち止まって考える時間ができました。どうせ新しい店をやるなら、まったく違うロケーションでやりたい。一番自分の好きな場所でやりたい。そう思ったとき、迷わず珠洲を選びました。  こんな海も見えて釣りもできるし、食べ物もおいしいし、空気も美味しくて人も優しい。「何にもない」って言う人も多いけど、ここには全部あるんですよ、僕の中では。

珠洲で「TORANI HAIR」を営む美容師の吉井謙太さん(撮影:野上英文)

「想定外の客層。でも、手応えあり」 金沢との違い

 珠洲は65歳以上が人口の半分以上を占める地域です。ここでヘアーサロンを開くにあたり、最初は高齢者の方々をメインターゲットに考えて、送迎や訪問カットを軸にした事業計画を立てました。足が不自由な方や遠くまで行けない方のお役に立てればと思ったんです。  ところが、いざやってみると想定とはまったく違いました。お年寄りはなかなか来てくれないんです。もうずっと行ってるお店があるし、そう簡単には変えられない。それよりも、意外なことに、20代から30代前半の若い移住者の方々がたくさん来てくれるようになったんですね。  私一人でやっているので、スタイリングチェアが1席のみ。椅子はお客さんが外に向かって座るように置いており、鏡の先はガラス張りで海を眺めることができます。海は身近にあっても、なかなか日頃ゆっくりとながめることってないじゃないですか。この地のもつ穏やかさを感じながら、リラックスした時間を過ごしてもらいたいな、とレイアウトにこだわりました。

TORANI HAIRのスタイリングチェアは海を眺める1席だけだ(店のInstagramから)

金沢は「コンビニよりも美容室が多い」と言われるくらい店舗数が多く、お客様は毎回違う店を選ぶこともできます。でも珠洲では髪を切れるところが限られているので、金沢まで2時間半かけて通う方も少なくありません。移動時間と店での滞在時間が同じくらいになってしまうんです。  そんな中で、地元に新しい店ができたということで、特に移住者の方々が気軽に試してくれました。外から珠洲に来られている方は、新しいお店や新しいものに対してそんなに構えずに入ってくれる傾向があります。地域の人と移住者が交わる場所として、僕の店が機能してるのかもしれません。

TORANI HAIRの店内(撮影:野上英文)

全壊判定「ここでもう1回やるのは難しいかな」

 2024年1月1日の能登半島地震のとき、僕は金沢にいました。珠洲に入れたのは10日後。到着して目にした店舗兼自宅の光景は、とてもじゃないけど住めるような状態ではありませんでした。  瓦が落ちて屋根に穴が開き、水浸しでカビも生えていました。サビだらけで土も落ちて、基礎も割れている。かろうじて建ってはいるけど、全壊判定でした。最初は正直、「ここでもう1回やるのは難しいかな」と思いました。  それでも平日は珠洲、土日は金沢という営業を、震災後も変わらず続けました。下道だけを使うなど工夫をしながら、週に一度だけなんとか珠洲に来ました。避難所生活をしながら、ブルーシートをかけたり地元の人に手伝ってもらいながら修復作業をしたりと、営業の再開準備をすぐ始めました。 被災当時の店内の様子(店のInstagramから) https://www.instagram.com/reel/DECmmIFJ-ro/  最初は「なんでこんなことになったんだろう」っていう現実を受け止められなくて。ただ、水が出ない時期にも水を汲んできて、一応髪のカットはしていました。 ボランティアとして、避難所の一角をカットスペースにして、仮設住宅で暮らす人たちの髪を切っていましたですね。   避難所で過ごすことで、みんなの顔を見るたびに、「ここでもこういうことできるな」「じゃあ、ここがダメでも仕事はできるんじゃないかな」っていうことが、ちょっとずつ見えてきました。  店の修復費用は総額500万円近く。屋根だけで300万円でした。国や県、市の助成金を使わせてもらいましたが、全額は出ず、半分にも届きません。でも、「なんとか仕事をできるところまで復帰したい」という僕のSNS投稿を見て、金沢で店を建ててくれた信頼する大工さんたちが、ブルーシートをかけに来てくれるといった協力をしてくださいました。  震災のあった年の2024年4月から5月にかけて本格的に営業を再開できました。

震災から1年あまりの歩みを振り返る美容師の吉井謙太さん(撮影:野上英文)

「髪を整えるのは、日常に戻ること」 美容業とは

 今回の震災を経験して、美容業に対する考え方が大きく変わりました。  これまでは、衣食住が先にあって、髪を切るということの優先順位は低いのかなと思ってたんです。髪は伸びるんですけど、切らなくても、生きていけないわけじゃないじゃないですか。  ところが震災の直後、割と早いフェーズで「カットしたい」「白髪も染めたい」といった声がたくさん寄せられました。特に「白髪を染めたい」というニーズは、想像以上に強かったです。今まで白髪染めをやっていた人が急にできなくなったときの苦痛というか、それをすることで、以前の日常に戻れた気分になれるんですね。  珠洲のお店でテレビ取材を受けたときに、お客様が「すっきりしたことも嬉しいけど、やっぱり日常に戻った気がする」とおっしゃってくれました。  これを聞いたときに、ああそうなんだと。  僕は美容師なので、髪を整えるっていうことを、どちらかというと当たり前の作業として捉えていました。だけど、それがお客様にとっては、もっと深い意味を持っているということを教えていただいたんです。

TORANI HAIRのスタイリングチェア背面にあるカラーリングの材料(撮影:野上英文)

 震災後、PTAの方からお声がけいただいて、中学生の卒業前のカットもボランティアでやらせてもらいました。髪を切ることができなかったと思うし、年ごろの子どもたちにすごく喜んでもらえて、やってよかったなと思いました。  水道が復旧するまでは本当に大変でした。カラーをするとなると、水が出ないと始まりませんから。でも、その分、店でも水が出るようになったときの「やっと普通に髪を染められる」という喜びは格別でした。  美容というのは、単に見た目を整えるだけじゃなく、精神的な安定や日常性の回復にとって不可欠なものなんだということを、この1年あまりで身をもって感じました。

吉井謙太さん(撮影:野上英文)

「声なき声をすくい取る窓口に」 地域のハブとして

 美容室という場所では、カットや施術に時間がかかるあいだ、お客様といろいろな話をさせてもらえます。お客様からそれぞれの状況だったり、思いだったりを聞かせていただいて、僕も一緒に考えたり、どうもできなくても、そういう場所になればいいなと思ってやっています。  震災後は、お客様の半分ぐらいが入れ替わりました。  道路状況も悪くて来づらい。それでも通ってくださる方々がいる。本当にいろんな声を聞かせてもらっています。住む場所がない、仕事場も失った、仮設住宅にいるけどいつまで居続けられるかわからない……。皆さんそれぞれ違う状況で、違う悩みを抱えています。

吉井謙太さんがヘアカットに使うハサミ(撮影:野上英文)

 ある時、県の職員さんから「困っていることはないですか」って聞かれたことがあるんですが、僕1人に見える範囲の困りごとなんかよりも、もっといろんなところで声を大にして言ってほしいこととか、困ってることっていっぱいあるなって思いました。でも、それを僕が代弁するには軽すぎるし、そこまで分かってないこともあります。  例えば、保育園のトイレが使えないんだとか、僕の行動範囲の中ではわからないような情報を耳にすることがあります。でも、それにはいろんな背景や理由があったりするので、こういう仕事だからこそ、いろんな声を聞かせてもらって、僕も一緒に考えさせてもらっているという状況です。  本当は、そういう小さい声をうまく拾って、それがちゃんと次の地域のアクション、改善につながるような仕組みがあればいいんでしょうね。まだそこまで能登では手が回っていないのが現状です。美容室が地域の情報ハブとして、もっと機能できる可能性はあると思うんですが。

店が、地域のためになれるのではないかと語ってくれた吉井謙太さん(撮影:野上英文)

過疎地で埋もれる「子育て世代が求めていること」

 この地域では、65歳以上とか、お年寄りに向けたいろんな支援はすごく分かりやすくて、充実していると感じます。でも、もっと下の世代、小さい部分。人数としては少ないけども大事にしていかなきゃいけないのは、子育て世代なんじゃないかと思います。  保育園の発表会に行ったとき、思っていたよりも若い子育て世代の方がいるなという印象を受けました。少ないけれど、確実にいる。そういう方々から聞く悩みは切実です。  とあるご家族から聞いたのは、「娘にダンスをさせてあげたいけどできない」「前まで英会話をやってたけど、今は行けなくなった」ということでした。その親御さんが「子供にさせてあげたいことが、できない状況」なのです。  例えば、月に1回でもダンスの上手な方が来てくれて、教室を開催してくれるとか。芸能人や著名なプロじゃなくていいんです。もっと身近な方でいい。そういった小さな支援があれば、子育て世代の方々も「ここでまだ頑張ろうかな」って思えるんじゃないでしょうか。  公民館でヨガ教室とかもやってますが、小さい子供たちの参加はありません。習い事のニーズはあるのに、それに応える場所や機会がないのです。小学校も統合の話が出ているなかで、若い世代が残りたい、戻ってきたいと思える環境づくりが必要だと痛切に感じています。 妊婦さんが立て続けに店に来たこともあります。珠洲には妊婦さんが暮らしていくのに欠かせない助産師さんがいないので、約80キロ離れた七尾まで行っていると話していました。いのちの誕生、保障、安全って、すごく大事なところだと思います。

具体的に必要な支援

・地域の特に子育て世代の声を支援につなぐ仕組みづくり ・幼児・子供向けの習いごと・体験教室の開催 ・妊婦・乳幼児の医療・保育アクセス改善への協力 ・道路復旧の早期完了(安全な来店環境の確保)

「午前は海、午後は仕事」理想のライフスタイルへ

 震災から1年余り。2024年は震災の影響で海にほとんど入れませんでしたが、震災で能登を離れた人から船を安く譲ってもらいました。漁港も使えるようになりそうなので、また海の楽しみが戻ってきます。  朝早く起きて好きなことして、10時ぐらいから仕事という生活ができるのは、珠洲のすごい魅力ですね。47歳になった今、さすがに毎日、朝から晩まで全力というわけにはいきません。それでも「今日はやめようか」とか言いながら、いつでも海に行けるっていう選択肢があるのは贅沢です。  近所には60歳から移住してきて、今も釣り船で仕事をしている方もいます。「お前なんかまだまだいけるぞ」って言われると、確かにそうだなって思います。今は一番大事な軸をしっかり固めて働いて、ここにちゃんと自分の居場所を作って、その先のことは、また考えればいいかなという感じです。

TORANI HAIRの書棚ラック。魚釣りの本も並ぶ(撮影:野上英文)

 同業者の多くが店舗を失ったり営業できない状況にあるなかで、僕自身は今こういう状況でもなんとかやらせてもらっています。  1人でやるっていうのはずっと決めているし、スタッフを増やそうという気持ちもありません。でも、僕1人でやれる仕事量って決まっているので、1日も早く他の店舗の皆さんにも再起してもらえると、珠洲全体にとってもいいと思います。

美容室「TORANI HAIR」を営む美容師の吉井謙太さん(撮影:野上英文)

事業者プロフィール

美容室TORANI HAIR(トラーニヘア)

代表者:吉井謙太 所在地:石川県珠洲市折戸町リ部9番地1 電話番号:0768-86-2710 営業:平日(月〜金)、12:00-20:00

取材後記

 私は日々の仕事が忙しいとき、地下鉄の駅改札そばにある「格安ヘアカット」(いまは1300円程度)を利用することがある。従来のヘアカット店が座席数に制約されてスケールアップできない課題に対し、そこではカット専門に特化して、1人あたり10分程度の高回転オペレーションを実現。「座席数が少なくても売上アップを成し遂げた」と、ビジネススクールでは習った。  格安カットの店内では、会話はほとんどない。髪を切る方も、切られる方も「無駄なこと」だと捉えているからだ。  そんなビジネスとは真逆のことを珠洲の「TORANI HAIR」はやっている。美容師は1人、座席も1つ。座って見える海のせせらぎも、流れている時間も、せわしなさや効率性とは無縁だ。訪れる顧客は、家や職場と別の「第3の場所」(サードプレイス)として、ここでの時間を楽しみにしている。  店から一歩出れば、過疎地の珠洲であっても「多数派」の声に重きが置かれがちだ。ただ、吉井謙太さんが語った「少ないけれど、確実にいる」若い世代の声こそが、地域の将来を担っている。長く続く復興。この店で交わされる何気ない会話が、明るい話題で包まれることを願わずにはいられない。

取材者

野上英文(ジャーナリスト)

 神戸出身、中学2年生で被災。2003年に朝日新聞社入社、初任地の金沢では連載『石川と阪神淡路大震災』『能登球児は、いま』などを企画・執筆した。新潟中越地震や3.11、インドネシア・スラウェシ島地震などで災害報道に携わる。2023年にユーザベースに参画、編集者・パーソナリティとして活動し、25年にはNewsPicks防災部を有志で立ち上げて減災・防災の情報発信(https://newspicks.com/topics/nogami/)をしている。著書に『戦略的ビジネス文章術』『プロメテウスの罠4』ほか。

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