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若い力が創り出す「シン・能登」を後押し、希望とともに店の再建に踏み出す“紙子鮮魚”

有限会社 紙子鮮魚

更新日:2025年5月9日

店舗兼住宅を復興することの難しさ

 2025年5月の今、個人的な復興の課題は被災した店舗兼住宅の再建です。断水が解消した2024年3月中旬に営業再開しましたが、建物はコンクリートの床に亀裂が入り、天井には隙間ができています。行政の被災建築物応急危険度判定では建物の下も地割れしているだろうといわれました。  しかし、判定の結果は一部損壊でした。鉄骨コンクリート造りだからという理由で、木造建築ならば全壊の判定とのことでした。納得できず不服申し立てをしましたが、判定は覆りませんでした。

店舗兼住宅の基礎となるコンクリートの床には横一直線に亀裂が走る(2025年5月撮影)

新たな能登の姿「シン・能登」に希望託す

 奥能登が地震と豪雨で受けた被害は甚大で、100%元通りに復興することは残念ながら無理です。取り引き先だった旅館や飲食店は廃業したり、2025年4月の今でも休業していたりします。現状を踏まえ、どんな能登にしていくのかを考える段階に入っています。  現状に沿った復興には若い人の力が必要です。若い人が動かないと変わらないし、それを妨げては変われません。炊き出しの際や音楽で復興を支援するなど、苦しい状況のときでも楽しみを忘れず、笑顔を意識している若い人たちを目にして感心しました。彼らの力が新しい能登の姿を見せてくれると信じています。  能登は今も変わらず水も魚も米もおいしい。景色も春夏秋冬1年を通してきれい。呼び方はネオ・能登、シン・能登、どちらでもいいけど、これから若い人たちが創り出す新しい能登に希望を託します。

毎朝仕入れる能登の魚は新鮮でおいしい

若い人たちの力を信じてサポート

 地震があった2024年の夏も、宇出津(うしつ)の「あばれ祭」は開催されました。地区によっては参加を見合わせたところもありましたが、うちの上町(かみちょう)地区は参加しました。地区の会合では参加を見合わせるべきという意見も少なくありませんでしたが、若い人たちのやりたいという声を聞いて「何かあったら俺が責任を取る」と押し切りました。何事もなく無事に終わってホッとしましたが。  今、さまざまな復興懇談会が開かれています。うちも被災したけど、会社や家庭などそれぞれで内情は違うので、望む復興のかたちもまちまち。でも、方向や方針を決めないと進みません。その席で若い人たちに積極的に発言してもらいたい。 「思っていること、考えていることを遠慮せずに発言して。後押しするから」と言っています。かつての自分だったら、彼らの意見を「青いこと言っているな」と思っただろうけど、今はその力が大切で必要です。  亡くなった親父は店の経営や家のことに口を出すことはなかったけれど、困った時に「こうしたいんだけど」と相談すると、「それでいいからやってみろ」と言ってくれた。それだけで安心というか、心強いというか、背中を押された感じがしました。そんな存在でありたいです。

不安よぎるが「必要」の声で一歩踏み出す

 店舗兼住宅の再建に対する不安が一番です。補助金は利用できますが、店舗兼住宅であることと一部損壊判定なのでとても足りません。金融機関の融資に頼るしかないので、マイナスからの再スタートです。  被災して廃業したり、今も休業したりしている店や事業所があります。町の人口も減りました。新型コロナ禍ではじわじわと売り上げが減りましたが、地震ではがくんと一気に落ち込みました。  借り入れにあたり、金融機関からネットショップの開設を勧められています。今までの対面販売では、お客さんの家族構成や好みなどを聞き、それに合った魚を勧めてきました。このやりとりが好きだし、やりがいでもあります。ネットでもそれができるのか不安です。  宇出津には魚市場があり、紙子鮮魚も競りに参加して水揚げされたばかりの魚を仕入れています。輪島や珠洲の市場でも地震前は競りが行われていましたが、今は金沢の市場に直送となっています。流通の変化も将来的には不安材料の一つです。  もともと心配性だし、ネガティブな考え方をしがちだから、正直なところ再建を迷っていました。お客さんや若い人たちから「必要」と言われ、何とか一歩を踏み出す気持ちになりました。  ネット販売の取り組みはやらなければならないと思うので、若い人たちや専門家に教えてもらいながら、能登の魚をより多くの人に知って食べてもらえるようにしたいです。

対面でのやり取りが楽しく、やりがいでもあると話す紙子さん

“有限会社紙子鮮魚”について

 創業は50年前。父が脱サラしてスーパーマーケットの一角で鮮魚店を始めました。当時は親父が煙たくて早く家を出たかったから、高校卒業と同時に大阪に行ってサラリーマンになりました。  25歳で退職して実家に戻ることになり、親父の店で働くことになりましたが、魚について何も分からないので金沢市内の系列スーパーの鮮魚部で1年間働きました。ところが、修行のはずが掃除や後片付けばかりで、包丁を持つことがありませんでした。 「一番きつい仕事をやらせて」と親父が頼んでいたのです。謙虚さを身につけさせるための親心でした。8年前に亡くなりましたが、20年も一緒に仕事するとは思っていませんでした。頼りになる相談相手であり、愚痴も聞いてくれる存在でもありました。  2000(平成12)年にスーパーから独立し、現在の場所に店を構えました。店を任されてからは県内外の飲食店への卸売り、個人の地方発送にも力を入れましたが、店頭売りが基本なのは変わりません。朝に水揚げされた魚を競り落とし、午前中に店頭に並べ、お客さんとやり取りするのが好きです。今56歳ですが、10年後も魚屋をやっていると思います。

2000(平成12)年4月に現在の場所でオープンしたときのチラシ

事業者プロフィール

有限会社 紙子鮮魚

代表者:紙子大輔(代表取締役) 所在地:石川県能登町宇出津新1字157

取材後記

 取材を申し込んだ際、紙子さんには「復興に向けて人に語れるような、たいした話はないよ」と敬遠されました。それでも話を伺ううちに、思いの丈を口にしてくれました。  私の住む関東地方では、各メディアが地震の起きた毎月1日には「1年◯カ月が経った被災地では」と報じますが、2025年5月現在は大阪万博の話題ばかりが毎日のように報じられています。 「能登は今、どうなっているのだろう?」と、とても気になっていたので、この「シロシル能登」の取材ボランティアに参加しました。  今回、紙子さんから「地震当日の夜は星がとてもきれいだった」と聞きました。東日本大震災で私も停電を経験しましたが、同じことを感じました。紙子さんから能登のリアルな現状を聞くことができ、来て良かったと思いました。  5月末にオートバイのツーリングイベントでまた能登を訪れる予定です。また美味しい魚が食べられると楽しみにしています。

神野泰司(フリーライター・行政書士)

地域情報紙の発行に携わっていたときに東日本大震災が起こり、ボランティア団体をはじめ消防団や自衛隊など支援活動に当たるさまざまな団体を取材しました。ですが、仕事とはいえ、後ろめたさを感じていました。2018年にフリーとなり、西日本豪雨で被災した広島県呉市でのボランティアを機に微力ながら災害支援活動を続けています。 日本記者クラブ個人会員・茨城県行政書士会所属

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