石川県七尾市から穴水(あなみず)町を結ぶ鉄道“のと鉄道”。かつては穴水駅で分岐し、輪島まで至る「輪島線」、珠洲まで至る「能登線」が延び、奥能登の人々の生活の足として親しまれてきました。現在は七尾駅から穴水駅まで33.1km、8つの駅間を運行しています。
能登半島地震が発生した2024年元日も、多くの乗客を乗せて列車は走っていました。幸い地震発生時は各車両とも駅で停車中だったことで人的な被害はありませんでしたが、線路は飴のようにうねり、地割れや崖崩れ、トンネルの崩落など甚大な被害を被りました。
さまざまな人の尽力で地震発生から約3か月で全線での運行を再開できましたが、今も車窓から見える景色には、修繕中の道路、ブルーシートをかけた屋根、建て替え途中の建物、更地になった場所など、地震の痕跡が残っています。
今回はのと鉄道で企画・営業を担う東井豊記(とうい・とよき)さんと、震災語り部観光列車で語り部を務める宮下左文(みやした・さふみ)さんにお話を聞きました。東井さんは地域の交通を支える鉄道会社の一員であり、4人の子どもを育てる父親です。宮下さんは、元日に観光列車のアテンダントとして列車内にいて、乗客を避難誘導した当事者の一人です。お二人の話から、発災から今日までのこと、そして未来に向けたのと鉄道の取組みについてうかがいました。
[取材・構成 坂下有紀]
2024年元日、突然の巨大地震と向き合ったあの日
のと鉄道旅行センターの東井豊記です。観光列車の企画や営業を中心とした仕事をしています。私は穴水町の出身で、のと鉄道に入社して10年ほどになります。観光の仕事が主ですが、一般のお客さまへの対応も含めて、線路を介して人と人をつなぐ仕事をしていると思っています。

2024年1月1日の地震発生時は、家族で内灘(うちなだ)町の自宅から穴水町の実家へ向かっている途中でした。もうすぐ実家に着く、というところで緊急地震速報が鳴りました。車には妻と子どもたちが乗っていました。当時、子どもは3歳、5歳、7歳と幼く、妻は4人目の子どもがお腹にいて妊娠7か月でした。
とにかく電柱や崩れそうなものがある場所を避けて車を停めて様子を見たんですが、その直後に、経験したことのない揺れがきました。車高のあるミニバンに乗っていたせいか、本当に遊園地のアトラクションみたいな揺れ方でした。

実家のすぐ近くまで来ていたんですが、向こうから実家の車が走ってきました。「あぁ、これは栗園に避難するんだな」と思って、そのままUターンして実家の車の後を追いかけました。
両親は、実家から5分ほどの山あいに栗園を営んでいます。津波警報が出ていたので、海から離れた高台にある栗園への避難は納得でした。栗園は山の中にあり寒かったけれど小屋があり、両親、そして東京から帰省していた弟家族と共に避難することができました。しかし、そこで下の弟が釣りに出かけて戻っていないことを知らされました。
近くの釣り場ならもう帰って来ていてもおかしくない時間なのに姿が見えない。大津波警報が出ているなか、家族を置いて探しに行くこともできず、頭の中では最悪のことも考えました。結局、発災から4時間ほどして帰ってきました。いつもより離れた場所に行っていて、地震によって道路が通れず、通行できる道を探しながらなんとか帰ってきたそうです。無事な姿を見たときは本当にほっとしました。
僕たち3兄弟はそれぞれ違う場所で被災していて、それぞれの怖さがあったと思います。東京から子どもを連れて帰省していた弟は、実家で被災しています。築100年ほどの木造住宅なので、揺れ方も激しかった。両親は孫たちが怖い体験をして「もう能登に来たくない」と思うんじゃないかと心配していましたが、怖がらずに今も来てくれています。それは両親にとって本当によかったと思います。


能登で働くなかで知り合った、多くの人の顔が浮かんだ
避難した栗園では、ほかの地域と同様に水道も電気も使えませんでした。寒さをしのぐため、子どもたちと一緒に避難小屋の窓を段ボールでふさいだり、近くの川で水をくんだり、実家へ食料や毛布を取りに行ったりしながら、会社のことも気になっていました。
発災当日の夜22時頃、いろんなことがひと段落し、会社へ向かおうと車を走らせました。しかし、途中で道路が寸断されていて進めませんでした。そこでようやく携帯の電波がつながって、会社と連絡が取れました。会社では全社員に電話をかけて安否確認をしていたようで、ようやく聞けたのは「かなりダメージが大きい」ということだけでした。そして、「無理に来なくていいので、明るくなってから状況を見て来れるようなら来てほしい」と言われました。
1月2日、実家から必要な物を運び出したあと、自宅のある金沢方面へ向かう途中で会社の事務所がある穴水駅に寄りました。通常なら実家から20分くらいの距離ですが、その日は6時間もかかりました。渋滞がひどく、あまりにも進まないため、途中で子どもたちと虫探しをしたのを覚えています。また、道路状況の情報はSNSを確認しながら、情報がない道路は前進と迂回を繰り返しながら進みました。SNSやインターネット、LINEなどから新しい情報を得られるかどうか、高齢の方が多い能登で、その重要性を痛感しました。
穴水駅では列車がホームに停まっていて、それが仮設の事務所になっていました。また、布団や畳を持ち込み、仮眠をとっている職員もいました。ホームの線路はグニャグニャに歪んで断線していたし、駅舎も被災していました。当社の社員はほとんどが能登在住で被災者です。家が全壊して避難所に身を寄せている人もいました。それでも、関係各所との連携、お客さまへの連絡、駅施設や沿線の状況確認など、皆が自分たちにできることを行っていました。


私はいったん金沢方面に家族を送り届け、インターネットでの情報発信や、旅行会社へのキャンセル対応などを行いました。通勤を再開してからも、震災前は片道1時間の道のりが、しばらくは3時間かかる状況が続きました。
のと鉄道の復旧は、こう進んだ
鉄道の復旧にはどのくらいかかるかまったくわからない、長くかかるのではないか、という声もありました。でも工事を進めるにつれ、約3か月後の学生たちの新学期には復旧させたいという思いが出てきました。
発災後、沿線の学校は大きく被災し、避難所になったり、そもそも使用できない校舎も多く、地域外へ引っ越されたり、リモートで授業を受けている学生さんもいました。また、道路が渋滞するなか、お子さんを学校まで送り届ける親御さんもいたりして、大変な環境のなかで勉強していたんだと思います。新学期向けた早期復旧は、新入生も在校生も、できるだけ通常通りの学校生活を送ってほしいという弊社職員みんなの思いでした。
1月1日の地震発生で全便が運行停止。線路の湾曲、線路上の土砂災害、駅施設の被害が確認され、1月9日と10日には専門家とともに被災概況調査を行い、沿線50か所以上で被害が確認されました。

その後、七尾方面から順次復旧工事を開始。まずは七尾─能登中島間の部分運行再開を目指しました。同時に、1月19日には七尾―能登中島間の部分運行再開を目指した線路工事が始まりました。1月29日には全区間でバスによる代行運転を開始。このときは、石川県内のバス会社さんに全面的なご協力をいただきました。本当にありがたかったです。
なんとか通勤・通学の足を確保するため、朝夕7往復の代行運転を高校生の通学に合わせて行いましたが、震災前は穴水駅〜七尾駅は列車で40分ほどでしたが、代行バスでは道路状況が悪く2時間半かかることもありましたが、学生さんにご利用いただきました。


2月15日に七尾〜能登中島間の運行を再開すると、移動時間はかなり改善されました。被害の大きかった能登中島〜穴水間は引き続きバス代行を続けましたが、4月6日に減便の臨時ダイヤではありましたが、ついに全線全区間で運行を再開。7月20日に通常ダイヤへ戻すことができました。
線路工事は片側から一方通行で進めるのが一般的なのですが、今回は工期短縮を目指して部分ごとに同時進行で修復を進め、4月の新年度までの復旧を目標にしました。これほど早く復旧できたのはJR西日本さんをはじめ、作業にあたってくださった皆さんのご尽力のおかげです。
全線開通した4月6日は沿線の桜が咲き始めたころでした。のと鉄道には、約100本の桜並木が線路を包むように咲く能登鹿島駅があります。「能登さくら駅」とも呼び親しまれる小さな無人駅です。
開通後、沿線地域の方やほかの能登地域の方、支援者の方や運行再開を心待ちにしてくださっていた方など、多くの方にお越しいただきました。そのころの能登は、多くの人が集えるイベントはまだ少なく、能登鹿島駅の桜の下には本当に多くの笑顔が溢れていました。それぞれに苦しいことや大変なことを抱えていた方も多くいたと思いますが、駅周辺だけは明るい雰囲気に包まれていたことを覚えています。弊社の復旧・復興の歩みを象徴する風景だったと思います。

風化防止や災害の教訓を伝える「震災語り部観光列車」
のと鉄道では、震災後「震災語り部観光列車」を運行しています。これは、弊社職員が「語り部」となり、列車内で「そのとき何が起こったか」「私たちはどう行動したか」といったことを伝える取り組みです。
のと鉄道では、2016年より観光列車「のと里山里海号」を運行していました。専任のアテンダントが沿線の風景を案内したり、飲食プランを提供するなど、沿線の魅力を詰め込んだ列車です。
発災時も運行日で、ちょうど途中の能登中島駅で停車していました。そのときのアテンダントが中心となり「震災語り部観光列車」の語り部をしています。運行にあたり、会社としては迷いもありました。被災した職員に語り部を頼むことは心の負担とならないか、運営にあたりそこはやはり気にしました。
それでも、アテンダントの宮下・坂本・牛上の3名が二つ返事で「やります」と強い思いを返してくれました。7月、3名は東日本大震災後に「震災学習列車」を運行する三陸鉄道へ、その取り組みを学びに赴きました。被災地の鉄道として、何をどう伝えるか。その実践を東北で学びながら、のと鉄道でもできることを考え始めました。

2024年9月16日、まずは普通車両を使った「のと鉄道語り部列車」が始まりました。震災を経験したアテンダント3人が語り部となり、団体向けに貸切車両で運行を開始。さらに2025年4月6日には、被災してから運休していた車両「のと里山里海号」で「震災語り部観光列車」をスタートしました。


発災直後は、救命救急や復旧関係者以外は「まだ能登へ行かないで」と呼びかけられていた能登に、少しずつでも人が来てくれる。語り部列車は震災の経験を伝える試みとしても注目されました。しかし、運行開始からほどなく9月21日に奥能登豪雨が発生しました。沿線で大きな被害はありませんでしたが、奥能登での被害は地震以上ともいわれ、復旧・復興に向かって歩み始めていた人々にとって、非常に辛い出来事でした。

震災後、田鶴浜駅へ寄った際、ボランティアで駅を装飾してくれている「ふるさとの駅を守る会」の方が、以前と変わらず駅の飾り付けをしてくれていました。被災して生活状況が大きく変わってもこれまで通りのことを行う、それが大切なのだと話されていました。
地域の方にとって、のと鉄道が走っていることは「当たり前」の風景。地域の方が駅を飾る、花を植える、お子さんが列車に手を振る、学生さんが乗車して学校へ通う、ご高齢の方が通院する。その当たり前が途切れると、地域の皆さんは苦しくなる。地域の方々の当たり前の日常を残していくことは、私たちの大きな役割だと思います。
そしてもう一つ、外から能登へ来ていただくための観光要素も重要だと思っています。沿線には穏やかで美しい風景があります。この風景も地域に人が住んでいてこそであり、観光誘客は、地域の交通インフラを守る意味でも重要です。
観光と生活の足、どちらが欠けてものと鉄道は成り立たないと思います。地域の皆さんの当たり前の毎日を守りながら、観光で能登へお越しいただけるよう、これからも努力していきます。
能登中島駅から高台へ、観光列車の乗客を避難誘導
震災語り部観光列車のアテンダントを務めている宮下左文です。のと鉄道では震災前から観光列車「のと里山里海号」を運行していました。この車両は、内装に能登の伝統工芸などをふんだんに用いた特別な列車です。能登産の木材に加え、輪島塗(わじまぬり)、田鶴浜(たつるはま)建具、珠洲焼(すずやき)、能登上布(のとじょうふ)、能登仁行和紙(のとにぎょうわし)、能登島ガラスなど、沿線の文化の粋が空間の各所に活かされています。

2024年元日、のと里山里海号は一般車両と連結して運行し、私を含む3名でお客さまをご案内していました。北陸のお正月にしては珍しく雪一つない暖かな日でした。乗務していた列車が能登中島駅で停車していたとき、日常を切り裂くようなアラート音が響き、経験のない巨大な揺れが襲いかかりました。
のと里山里海号には35人、連結した一般車両には8人、運転士・乗務員を含めると2両で48人が乗車していました。16時6分、最初の揺れのあとに私と坂本さんは緊急時のマニュアルに沿って手分けして2両の窓のスクリーンを下げてまわり、お客さまに落ち着いて車内で待つように声をかけました。その直後、16時10分に最大震度7の地震が襲い、さらに16時12分にも揺れが続きました。
運転士が車両のドアを開け、乗務員が乗客を駅の駐車場へ誘導しました。大津波警報も発令されたため、全員で近くの高台にある旧中島高校へ避難しました。最初のアラートが鳴った直後も、次の大きな揺れが来たときも、何が起きているのかを考えるより先に、お客さまを無事に避難させなければという気持ちでした。揺れは立っていられないほど激しく、まるで洗濯機の中にいるようでした。

避難した旧中島高校には、地元の方も次々と集まり、およそ300人が身を寄せ合う夜になりました。避難してからも慌ただしく、携帯電話の電波も入りづらかったため、家族と連絡が取れたのは夜の9時半ごろでした。バッテリーの残量も限られていたため短いLINEメッセージでしたが、家族の安否が確認できたと同時に、自宅が全壊したことを知らされました。
夜の間も余震が続き、眠れないまま朝を迎えました。翌朝、体育館の倉庫で見つかったラジオからラジオ体操が流れ、みんなで体操をしました。お昼前に本社から工務スタッフが到着し、一緒に乗務していた坂本さんが、工務スタッフの車で水の調達に出ました。地元の方のご協力で、前日の昼食以来のお食事を皆さんに配ることもできました。
私たちが穴水の会社へ戻ったのは、午後1時半ごろ。前日から続く長い1日を終え、家路につきましたが、通常なら片道30分ほどですが、道路の亀裂や崩落が激しく、迂回しながら5時間以上かかりました。到着すると家は全壊していましたが、家族が家の隣にある倉庫で帰りを待っていてくれました。

その後の避難所での暮らしも苦労があり、悲しい別れも経験しました。アテンダントの坂本さん、牛上さんもそれぞれの被災体験を持っています。私たちは語り部として列車の中で自分たちの体験をお伝えしていますが、語り部というのは、聞いてくださる方がいなければ成り立ちません。お客さまが来てくださることが、耳を傾けてくださることが本当にありがたいんです。

震災直後は「学びたい」「応援したい」という目的で来てくださる方が多かったけれど、時間が経つにつれて、少しずつ観光の色合いも強くなってきました。そうすると、「地震っていつあったんですか?」と聞かれることも。それは復興が進んだ証でもあるんでしょうけれど、正直、はっとします。復興していても、地震があったことは忘れてほしくない。私たちの経験を共有することで、学べることがきっとあるはず。だから、列車の中で何を、どう語るかをいつも考えています。

今では、新たなメンバーも加わりました。お話しする内容も、列車内でお客さまにお見せしている写真ボードも随時更新しています。地震や豪雨災害の画像だけではなく、七尾港の工事写真や、和倉温泉の復旧工事の現場など、なかなか見られない光景もお見せしています。

「乗るたびに発見がある」とおっしゃってくださるリピーターのお客さまもいらっしゃいますが、意識して変えているというより、世の中が変わっていくのに合わせて、話す内容も自然に変わっているんですよ。一歩ずつ前進している能登の様子、美しい自然や人々の営みについてもお伝えしています。
観光と日常、その両方があってこその線路
震災のあと、のと鉄道は「伝える」ことと同時に、「能登の子たちへ笑顔を届ける」ことにも向き合ってきました。ポケモンのラッピング列車はその一つです。震災後の早い段階でポケモン・ウィズ・ユー財団から協力の申し出があり、被災した子どもたちを元気づけたいという思いから2024年8月に運行が始まりました。

©Pokémon. ©Nintendo/Creatures Inc./GAME FREAK inc.
ポケットモンスター・ポケモン・Pokémonは任天堂・クリーチャーズ・ゲームフリークの商標です。
もともと子どもの数が減っていた能登は、災害によりますます子どもの姿を見かけなくなりました。ポケモン列車が走ることで、奥能登からも親子が見に来てくれました。町に子どもの姿があることが、地域の人の気持ちも明るくしてくれています。
土砂崩れで塞がった乙ヶ崎トンネルには、地域の企業のご協力のもと、以前よりもバージョンアップしたトンネルイルミネーションが再開されました。2026年3月29日から、穴水小学校4年生の児童が描いた図案をもとに制作した新たなイルミネーションも追加しています。子どもたちが描いた能登の生きものや風物などがトンネルの闇の中で光のメッセージになっています。

ポケモン列車も新たなトンネルイルミネーションも、再開に向けた線路工事も、多くの方のご協力で今があります。多くの企業さんや個人の方からも、復興に向けてたくさんのご寄付をいただきました。
震災は能登へ多くのマイナスをもたらしましたが、多くの方に励まされ、支えられていることをすごく感じています。そんな皆さんの思いに応えるためにも、これからも運行を続けていきます。
関わりシロ
観光だけでも、日常だけでも、ローカル鉄道は成り立ちにくいものです。のと鉄道の場合、地元の人々の日常を支えるために、観光にも取り組んでいるともいえます。この交通インフラを守り続けるため、関わりシロとしてみなさんに知っていただきたいことは次の3つです。
1)震災語り部観光列車に乗る
2)のと鉄道で能登を旅する
3)沿線の町や工芸に触れる
震災語り部観光列車に乗って、能登で起きたことを、自分のこととして受け取る。一般車両に乗って、地域の人たちと同じ線路の時間を体験する。沿線の町を歩き、駅の外へ出て、田鶴浜建具や能登上布、輪島塗といった土地の仕事に触れる。未来へ向かう小さな変化を見に行く。のと鉄道に「乗ること」そのものが、きっと能登との関わりになります。
▶シロシル能登
灰と青のあいだ、能登のひかり──能登上布最後の織元“山崎麻織物工房”が守る灯
取材後記
筆者はこれまで、のと鉄道の語り部列車に10回ほど乗車しています。取材をきっかけにご縁ができ、実は2025年4月の本格運行から配布された「震災語り部観光列車」のパンフレットの制作にも、ライターとして参加させていただきました。
最初に語り部列車に乗車したのは「今行ける能登」と題した金沢駅発着のツアーを同行取材した、2024年9月20日でした。ニュースでも取り上げられていた語り部列車に強い関心を持っていましたが、実際に乗車して語り部さんのお話を聞いたとき、思わず涙があふれたのを覚えています。
このころ、語り部さんのお話の中心は、のと鉄道と沿線、ご自身の能登半島地震の被災体験でした。その語りからは、震災の経験を「伝えていかなければ」という強い使命感が感じられました。私も自分が聞いた話を持ち帰り、一人でも、二人でも誰かに伝えたい。将来起こるかもしれない災害に備える知識や心構えとして、きっと役立つはずだと思いました。
その初めての乗車の日が忘れられないのは、もう一つ理由があります。翌日の9月21日に奥能登豪雨が発生したからです。私は珠洲市を訪れていて、豪雨による土砂崩れで道路が寸断され、一時帰宅困難な状況になりました。語り部列車で聞いたばかりの震災の記憶が、心に残っているなかでの出来事でした。
その後、ツアーの取材で再び語り部列車に乗車したとき、語り部さんのお話には、すでに豪雨の経験も盛り込まれていました。列車に乗るたびに語りの内容は更新され、能登の人々の暮らしや営みの変化が伝えられています。毎回、新しい発見があり、胸に込み上げるものがあって、つい涙がこぼれてしまう。けれど同時に、時間を重ねるごとに「今の能登」を知ることができ、復興に向かう歩みを感じることもできました。
2025年ごろから観光の話題も増えてきました。それは、能登が少しずつ前へ進んでいる証。それでも、忘れてはいけない能登半島地震の記憶がある。この語り部列車に乗り、その空気をぜひ体感してほしいと思う。きっとその経験は、いつかどこかで、自分自身や大切な人を守ることにつながるのではないでしょうか。
そしてもう一つ。列車の車窓から見える能登の風景、人のあたたかさ、そして観光列車「のと里山里海号」の車内に息づく工芸の美しさも、ぜひ味わってほしい。この列車は、震災の記憶だけではなく、能登という土地の豊かさそのものを運んでいるのだと多います。




