奥能登・珠洲市三崎町伏見。海と里山がほどよく混ざり合うこの集落に、築約200年の古民家がある。あの2024年の能登半島地震が発生するまで、坂本市郎(さかもと・いちろう)さん・信子(のぶこ)さん夫妻は、ここで珠洲焼の窯元“伏見窯”と古民家レストラン“典座(てんぞ)”を営み、料理と器、その両方を味わえる場所として多くの人に親しまれてきました。
しかし、2024年元日に発生した巨大地震は、その日常を大きく揺さぶり、茅葺屋根の母屋、土蔵、珠洲焼の工房と窯など、この土地で積み重ねてきた営みは大きく傷つきました。市郎さんが珠洲焼を製作していた工房は倒壊し、解体を済ませて更地になっています。窯も破損しましたが、ボランティアの手を借りて再建し、その隣に小さな工房を建てることができました。
しかし、その一方で妻の信子さんが運営していた古民家レストラン典座の再開は叶っていません。信子さんは2024年9月から、被災した飲食店が共同で営む仮設店舗「すずキッチン」「すずなり食堂」の代表となり、八面六臂の活躍で珠洲の食を支え続けています。この土地で、暮らしを立て直すとはどういうことなのか、坂本市郎さんにお話をうかがいました。
[取材・構成 坂下有紀]
築200年の古民家で始めたレストラン“典座”

うちの先祖は北前船の船主をしていたそうで、地主や村長もしてきた家系です。この古民家は先祖が残してくれたもので築200年になります。ここで古民家レストラン典座を始めたのは20年前になるのかな。
うちは珠洲焼の窯元だったので、都会から訪ねてくるお客さんから「この辺で食事ができるところはないですか」とよく聞かれました。当時の珠洲は外食できる飲食店が少なかったんです。子育ても落ち着いたし、じゃあ自分たちが飲食店をやってみようかって、妻が中心になって古民家レストランを始めました。

“典座”という店名は、仏教用語からとっています。禅宗のお寺で食事を司る役職のことです。とはいえ、うちは精進だけを出すわけではなく、海のそばだから魚も出していたし、肉料理も提供していました。蔵にあった輪島塗や自作の珠洲焼を使い、報恩講の精進料理をベースに、うちなりにアレンジした郷土料理に仕上げていました。
それが好評で、実は“典座”のほかに「珠洲ビーチホテル」のレストラン、大谷地区の「長橋食堂」の計3店舗を、従業員も雇って経営していたんです。個人のお客さまは古民家でおもてなししていましたが、旅行会社と提携して大型バスのツアーの受け入れもして、鉢ヶ崎の珠洲ビーチホテルのレストランで40人の団体を日に2回転することもありました。
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観光客の憩いと地元住民の日常の拠り所“珠洲ビーチホテル”

ノドグロ、牡蠣、カニ、そして能登の寒ブリなど、能登ならではの旬の味覚は観光のお客さまにとても喜ばれました。奥能登国際芸術祭のときも、たくさんのお客さまが来てくれました。現在、七尾で「ひのともり」、「うみまち商店」を営む日野貴明(ひの・たかあき)君が、最初に能登へ来たときにうちに一年ほど泊まり込みで手伝ってくれていて、彼に任せたフレンチのディナーは大好評でした。飲食事業を始めたことで、いい出会いがたくさんありました。
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“ひのともり”から“うみまち商店”へ。誰かの心に火を灯す場所から能登のにぎわいを創出
しかし、令和6年能登半島地震の被災で珠洲焼も、レストランも休業せざるを得なくなりました。妻は、同じく被災して営業できなくなった珠洲市内の飲食店の店主3名と一緒に会社を立ち上げ、2024年9月、「道の駅すずなり」横に仮設店舗「すずキッチン」「すずなり食堂」をオープンさせました。以来ずっと仮設店舗の運営と珠洲のことで奔走しています。
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瓦屋から珠洲焼へ、珠洲へ戻ってきた理由
祖父が能登瓦の工場を始めて、登り窯で瓦を焼いていました。珠洲は能登瓦の産地でしたが、今ではみんな廃業して瓦生産者は残っていません。能登瓦は釉薬を施した黒瓦が特徴とされますが、初期は焼きしめに近い瓦でした。上薬が普及していなかったのでベンガラ(鉄粉)を塗って焼き、防水効果をつけていました。それで、当時焼かれた瓦は赤茶色くザラザラしています。そこから釉薬が発達するにつれてツヤのある黒瓦へ変遷していきました。
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能登の「黒瓦」を残したい──“瓦バンク”が発信する懐かしくて新しい能登の魅力

祖父のあとを継いだ父が瓦屋をたたみ、珠洲焼の窯を始めたのが珠洲“伏見窯”の始まりです。伏見はこの地区の地名です。珠洲焼は珠洲市で平安末期から室町後期にかけて焼かれた、須恵器の技術を受け継ぐ「燻べ焼き(くすべやき)」という独特の高温焼成法で作られた、灰黒色の素朴で力強い美しさが特徴の陶器です。日本海沿岸で広く流通しましたが、15世紀末に突如途絶えたことで「幻の古陶」とも称され、約500年の時を経て昭和53年に復興されました。
僕は東京の大学へ進学し、そのまま出版社で働いていました。30歳ごろに父から「珠洲焼の窯を始めたから戻ってこい」と言われ、サラリーマン生活に疲れていたこともあってUターンすることに。最初から陶芸家を目指そうと決めていたわけではなく、技術は父に師事しながら身体で覚えていった感じですね。

珠洲焼も震災で大きな影響を受けました。地震前は約20軒の窯で40人ほどの作家・職人が製作していましたが、すべての窯が被災し生産が一時ストップしました。無事だった窯は無かったのではないでしょうか。レンガを積み上げて作ってある窯は揺れに弱く、地震では崩れやすいんです。

うちの窯は外側に鉄骨も使っていたので全壊は免れましたが、被害状況はそれぞれの窯で異なります。共同窯を借りて製作を再開した作家もいるし、僕のように自分の窯を直して焼き始めている窯もあります。中には廃業する人もいますが、前を向いている人は災害を乗り越え何とかしようとしています。
地震で止まった時計の針が、再び動きだす
地震で、僕が作陶していた工房は全壊しました。修復不能なレベルだったので解体して更地にしました。窯も崩れましたがボランティアの方達の助けで再建し、その隣に小さな工房も新築できました。新築といっても、廃材を利用したものですけど。


現在の生産量はようやく震災前の半分くらいです。「展示会をしませんか」という声もかかりますが、量が作れないのでできていません。注文をこなすので手いっぱいなんですよ。震災後も心配してくれたお客さんから注文をいただいたり、紹介で東京の有名ホテルの備品として作品を納品したり、料理屋さんからのオーダー注文もあったり。仕事を続けていけているのは、本当にありがたいですね。


震災の数年前に敷地内の土蔵の一つをギャラリーにリノベーションしたんですが、地震で土壁が崩れ落ちてしまいました。この土蔵ギャラリーを復活させるため、2025年8月に土壁づくりワークショップを開催すると、友人やボランティア、学生さんが集まって壁を再建してくれました。第1回奥能登国際芸術祭にサザエハウスを出展されたアーティストの村尾かずこさんが指導をしてくださいました。


片側の壁には割れた陶器や瓦のかけらがワークショップ参加者の手で埋め込まれ、この土蔵の記憶を物語るレリーフみたいに仕上げられています。ギャラリーに改築する前は、土蔵の中に漆器や民具がたくさんあったんですが、奥能登国際芸術祭2020+の「大蔵ざらえ」で、ほとんどを珠洲シアターミュージアムに提供したんですよ。いろんな品がここにあったことを、レリーフが思い出させてくれます。

2026年は“典座”の再開に向けて始動
古民家レストラン“典座”の再開は妻の信子がいなければ始まりません。彼女は新潟の出身で、東京で出会って結婚しました。明るくて、しっかり者で、面倒見がいい(普段ほめないので、こういうところでゴマをすっておきます)。震災後はその性格が前面に出た感じで、現在は「すずキッチン」「すずなり食堂」を営む「合同会社すずキッチン」の代表として日夜動いています。

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珠洲に腰を据えて暮らし、働ける人材を求めて──食で能登の復興を支える“すずキッチン”
▶︎能登乃國百年之計 能登の未来
“典座”とともに。100年後も能登らしさが残る土地として守っていきたい
深夜1時に起きて、2時に出勤、5時の「すずキッチン」開店までに200個のお弁当を作り、配達もこなす。仮眠して、また店に戻って、夜の7時にレジを閉めて帰る生活をしています。仮設店舗がオープンする前から、飲食店の仲間と一緒に避難所に届ける弁当を作っていました。
合同会社すずキッチンには20人の従業員がいます。移住せずに珠洲に踏みとどまった人たちの雇用を守る責任感もある。自宅を失った人も多く、住む場所の確保も必要になった。典座の近所にある空き家を社員寮にしたり、生活しやすい街中でも物件を探すなど、生活面でのサポートもしています。

仮設店舗や仮設住宅には「2年間」という制限があり、すずキッチンは2024年9月に開業しましたが、行政との間で営業期限が2026年12月までと定められています。それまでに各メンバーは自店の営業再開準備を進める必要があり、自店舗が営業を再開すれば、仮設店舗から撤退しなければいけません。仮設店舗の営業が延長される可能性もないわけではありませんが、信子も典座の復活に向けて歩み始めています。
自宅兼レストランとして使っていた母屋の建物は、瓦や壁が落ちたりしましたが、住めないことはありませんでした。お客さまにお食事を提供していた座敷は被害が少なかったので、修復して使えるようにしていきたいと思っています。

珠洲ビーチホテルのレストランは、スペースをお借りしていた立場ですが、1階のレストランスペースは立ち入り禁止の状態なのでしばらくは無理そうです。大谷地区の「長橋食堂」は、建物は瓦がすべて落ち、ガラスも破損しましたが、周辺に比べて建物本体の被害は少なかった方でした。それほど周囲の被害が大きかったともいえますが。
大谷地区は地震・豪雨で水、電気、道路などの生活インフラの復旧に一番時間がかかった地域です。大谷地区で唯一のスーパーが震災で廃業し、食品や日用品の買い物をするお店がなかったため、信子が営んでいた「長橋食堂」の建物に併設する形でミニスーパー「みんなのスーパー長橋食堂」を2025年5月にオープンさせました。
合同会社すずキッチンが運営主体となり、一般社団法人グリーンコープ共同体の支援を得て、みんなのスーパー長橋食堂を運営してきましたが、みんなのスーパーは2026年1月に大谷小中学校の近くに移転し地元の方が運営することになり、長橋食堂は2027年には再開の予定です。
発災からまる2年が経ちました。忙しくて考える余裕がありませんでしたが、フェーズが移り変わり、僕たち夫婦も少し立ち止まり、いまは自分たちのことを考える段階にきています。“典座”も元の姿に戻るべきか、そもそも以前と同じ形で続けていけるのか。
建物はボランティアの方の協力で少しずつ修復が進んでいます。再開する“典座”は、僕たち夫婦2人でできる範囲、お手伝いの人に少し入ってもらって、1日1〜2組のお客さまを丁寧にもてなせる食事付きの宿、オーベルジュができたらいいなと考えています。
もともと震災前から、土蔵の一つを改築して宿としてオープンする準備をしていましたが、地震で中断したんです。レストランの食事スペースにしていた母屋の座敷も、宿泊できるように整備しようと考えています。僕がやっている珠洲“伏見窯”も、珠洲焼の生産量を少しずつ戻して、個展も開催したいですね。


気仙沼の方がボランティアでよく来てくれるんですが、「金のさんま」で知られる「斉吉商店」の女将さんがいろいろとサポートしてくださって、信子は2026年2月末から休みをとって約1ヶ月間、フランスへ田舎料理を学びに行きました。フランスで開催する日本イベントで料理を提供する話もあり、そこで能登の料理と珠洲焼もPRしようと声をかけていただきました。
妻は震災からずっと気を張ってきたので、リフレッシュできる機会になるんじゃないかと思います。活発な人だから、休むって言っても休んでないかもしれないけど。僕は焼き物で、信子は宿と食事で、2026年は復興に向かって本格始動していきたいと思います。
関わりシロ──被災地の現実を理解し伴走してくれる人
1)オーベルジュ「典座」開業への的確なアドバイス
いま僕らが欲しいのは的確なアドバイスです。“典座”は食事・宿を提供するオーベルジュに生まれ変わる計画です。価格設定やサービスをどのくらいのグレードに設定し、どんなスタイルで営業するのがいいのか。
建築費が高騰しているなか、どれくらい費用がかかるのかもわからない。建築費用をかければ良いものはできるだろうけど、非現実的なすごいアイデアはいりません。運営、費用のかけ方など、現実的な相談にのってくれる真摯な専門家を求めています。「ちょうどいいさじ加減」を僕らは探しているところです。
これまでも、プロボノ人材でコンサルタントを紹介してもらい相談したことがあります。例はたくさん示してもらいましたが、その時は信子が忙しすぎて、話し合う余裕もなかったため、僕ら自身の考え、方向がまだ定まりきっていませんでした。今度は少し気持ちの余裕もできたので、じっくり本気の相談をしたいです。
2)被災地への思いやりと想像力
今でも被災地は手一杯なんですよ。訪れてくれる人はありがたいけど、こっちは想像以上に暇じゃない。ボランティアに行きたいけど移動手段がないから迎えにきてほしいという方がいて、それは正直困りました。支援する側も支援される側も、お互いの事情を想像できないと噛み合わない。関わってくださる方は、被災地が復旧・復興で手一杯だということを理解してくれる人がいい。そして、できれば一緒に考えてくれる人、腕のある大工さん、現場で手を動かせる人。そういう人たちに来てもらえたら、本当に助かります。
3)偏らない情報発信
メディアでは復興が全然進んでいないというネガティブな発信ばかり大きく取り上げられているように思います。でも実際は前進しているし、被災したけど頑張っている人、暮らしている人がいることに目を向けてほしい。珠洲、能登へ来て現地で見聞きして、人と会話して、自身の言葉で能登のリアルを発信してくれると嬉しいですね。
取材後記
坂本市郎さんの語りは、どこまでも静かで、被災地の現実と未来を見つめていました。「震災前と同じには戻れない」「2人でできる範囲で続けたい」──その言葉から感じたのは夢だけでは語れない暮らしの再設計。
そして、市郎さんが信子さんのことを語るとき、そこには誇りと心配が同居していました。被災地で飲食の事業を続けることは、単に食の需要を満たし、店を回すことではない。雇用を守り、人の生活を支え、町に踏みとどまる理由をつくり続けることでもあります。信子さんが背負うものの大きさを、市郎さんは淡々と語っていましたが、その口調こそが日々の過酷さを際立たせていたように思います。
“典座”の再開に向けた心身の準備が整いつつあることを知り、温かな希望のあかりが灯った感覚がしました。震災前には戻らないけれど、逆境も乗り越え、前よりもっと素敵になるのでは!? と思わせる、坂本夫妻の復興のこの先を、期待をもって見守りたいと思いました。

