「野菜のお返しを持って行ったら、めっちゃ怒られました」
そう笑いながら話すのは、岩城慶太郎(いわき・けいたろう)さん。 岩城さんは2021年に珠洲市へ移住し、自身が代表を務める上場企業の本社機能の一部を珠洲市へ移転させました。 移住、本社機能移転のきっかけは、能登特有の「与える文化」との出会いでした。
お返しも拒まれ、圧倒的な物量の野菜を前にして立ち尽くした東京育ちの経営者は、どうやって「返せないもの」に応えようとしたのか。 アステナホールディングス株式会社取締役、一般社団法人能登乃國百年之計(のとのくにひゃくねんのけい)副理事の岩城慶太郎さんに話を聞きました。
続く後編では、能登乃國百年之計が取り組む新たな復興支援の形についてうかがいます。
[取材・構成 水口幹之]
たまたま旅行で訪れた能登で、野菜を置かれるようになった
──2021年に能登へ移住とのこと、もともと能登と縁があったのですか?
実家があるわけでも親戚が住んでいたわけでもないんです。2015年ごろに旅行で初めて能登を訪れました。最初に珠洲市にある宿泊施設「木ノ浦ビレッジ」に泊まって、いいところだなと思って。それで、何度も滞在するようになったんです。
▶シロシル能登
木ノ浦ビレッジ(ザアグラリアンテーブル合同会社)
──移住するに至ったのは、どのようなきっかけがあったのですか?
何度も訪れるうちに、ある時から私が泊まっているコテージの前に、誰かが野菜を置いていくようになったんです。姿を見せずに野菜だけ置いていく地元のおばちゃんたちがいて。あまりにもたくさんの野菜をもらったので、さすがに申し訳ないと思って、お返しに何か持って行こうと考えたんです。
東京で生まれ育った私は、お中元やお歳暮をもらったらお返しするのが当たり前だったので、同じようにしようと思い、能登の方に持って行くお土産はなにがいいかと聞いたら「虎屋の羊羹」と言われ、そのとおりに買って持って行ったら、ものすごく怒られたんですよね(笑)
「私はこんなものが欲しくて野菜をあげているわけじゃない」
──怒られたのですか?
おばちゃんは「私はこんなものが欲しくて野菜をあげているわけじゃない。あげたくてあげているんだから、お返しなんて持ってこられたら気が悪い(=気分が悪い)」というんです。能登にはそういう文化があるんだなと思いました。
ある時、呼ばれて行った婦人会でこの話をしたんです。怒られたという話をする前に、「怒られたよね」と先に言われました。「なんでわかるの?」と聞いたら、「私たちはそういう文化を持っていない」というんです。
それでしばらくお返しもせず、もらうばかりの日々を過ごしていたら、ある時岩のりをもらったんです。岩のりは能登の名産で高級品で、私も大好きですし、しかもおばちゃんたちが自ら取ってきたものかもしれない。これはさすがにお返しをしなきゃと思ったんですね。どうしたら受け取ってもらえるかと考えた末に、以前から私の好物だった浅草海苔を買って持って行き、当時流行っていた「半沢直樹」の「倍返し」になぞらえて「海苔返し」だと言って渡したんですよ。そうしたらようやく受け取ってもらえて。
でもそこからが地獄の始まりで、ものすごく頂き物が届くようになりました。ある時はハタハタを200匹ももらってしまって(笑) とくに珠洲市の北部から北西部にあたる外浦(そとうら)地域の文化なのかもしれないですが、とにかくものを渡すんです。自分の分がなくなっても渡す。返せないほどの量の頂き物を頻繁にくれるから、とうとうお返しするのを諦めましたね(笑)
本社機能を一部移転し自らも珠洲へ
──そこから移住を考えるようになったのですか?
そうなんです。さすがにもらいすぎているし、何かお返しがしたいとずっと思っていたんです。私が持っているものでお返しできるものはなんだろうと。でも、私は畑も持ってないし、海で何かを取ってくることもできない。考えた末、みんなの困っていることを私ができる範囲で解決してあげればいいと思ったんです。
それでおばちゃんたちに「何か困っていることはある?」と聞いて回ったら、「別に困っていることはない」と言われて。能登の方は基本的に困っていても言わないんです。困るくらいならよそに住めばいいし、好きで住んでるんだから、困ることなんてない、と思っている。でも次第に「人が減ってきていて、自分が死んだ後もこの土地が残っているか心配」という話を耳にするようになりました。
そうか。それなら「じゃあ私が移住しよう」と思って。私がこっちに移って、会社も移して、社員も連れてきて。社会課題解決型のビジネスを作って、こっちに持ってくれば、初めて私が珠洲の人たちにお返しできるものが形になると思って、それで2021年に会社を移したんです。
──上場企業の本社を移すというのは、相当大変だったのでは?
たしかに、上場会社なのでなかなか大変でしたが、会社には「社会課題解決型のビジネスを小さく始めるから、本社の一部をこっちに移させてくれ」という話をして、了承を得て珠洲に来ました。
それで、珠洲でビジネスを始める準備を2年半くらいずっと取り組んできたんですが、2024年の正月に地震が起きてしまったんです。
地震発生、そして「お返し」としての支援活動
──地震後はどう動かれたのですか?
最初の1ヶ月は広域避難の支援に徹していました。救命救助のフェーズでしたし、社長の仕事もこなしながらやっていました。2月に入って、能登の復興に専念するため代表取締役からは退きました。それ以降は会社の普段通りの仕事もしつつ、株主総会の議長もやり、業績の悪い子会社の立て直しもしながら、それでもずっと能登のことにもかなりの時間を割いていました。
地震前にはあまり出てこなかった能登の人たちの「困りごと」が、地震後になって、ようやくいろんなところから出てくるようになりました。「逃げようにも車がない」「逃げた先のホテルがない」。そういう話がたくさん出てきたので、その困りごとを解消しようと思って始めたのが、「能登半島地震被災者避難者支援基金」です。その後、より復興に向けた取り組みを実施するために、4月に一般社団法人能登乃國百年之計を設立しました。
これは趣味なんです──義務感ではなく、好きでやる
──なぜそこまで能登のために取り組んだのですか?
頑張っているつもりもなくて、本当にベースにあるのは、最初におばちゃんたちにもらった「野菜」なんです。まあ壮大なお返しですね。でも「お返し」というと怒られるけど(笑) やりたくてやっているんです。
誰かに頼まれてやっていることじゃないから。本当にただ好きでやっているだけ。お金も受け取っていない。一般社団法人としての報酬もゼロで、むしろ持ち出しをしながらずっとやっています。これはビジネスでもなんでもなく、私の趣味なんです。
「私はあげたくてあげている。あなたにあげているんだから」と言われたように、私も「私にやらせてくれてありがとう」と思いながらずっとやっています。
それでも最初は、能登の人たちを助けなきゃ、という義務感でやっていたんです。でも、豪雨災害のあとに変わったんですよね。どこも水が出なくなって、みんなのところに水を配って歩いていたとき、馬緤(まつなぎ)町の山の中にあるお宅に水を持って行ったら、一人暮らしのおばちゃんが出てきて「気の毒な(=能登の言葉で「ありがとう、悪いねえ」といった意味)。私はここで一人で住んでいるだけだから、水なんかなくてもいい。裏から山の水が出るから、それで髪でも洗うから」というんです。
私が「それは冷たい水だからダメですよ、給湯器を通せないでしょう。私たちが持ってきた水を使ってください」と説得したら、「なんでそこまでしてくれるの?」と聞かれたんです。そのとき、一緒に水を配っていたメンバーと2人で同時に「好きでやっているから」という言葉が出たんです。そのときに初めて言語化できたんです。これは好きでやっているんだ、趣味なんだと。
だからそれからは趣味でやってるんです。「趣味が能登」という感じで。ボランティアで来ている方たちも基本的には無償でやっているじゃないですか。それが支援のあるべき形なんだろうなと思いましたね。

