
「みんなの帰る場所を守り続けたい」。奥能登“つばき茶屋”が願う静かな再生
つばき茶屋
更新日:2025年6月3日
さびれていく集落にもう一度明かりを灯したい

開店以来、地元の人の憩いの場としての役割を果たしてきた「つばき茶屋」
つばき茶屋は、2003年に能登空港が開港した年に開店しました。きっかけは母のさつきが「高屋地区にお嫁に来た若い人たちが集まって、気軽にお茶を飲んでおしゃべりできるような場所を作りたい」と思ったこと。
そして、自分が嫁いできた集落から次第に人が減っていき、空き家が増え、集まれる場所がなくなる様子を見て、「このままさびれたままで終わらせたくない」と考えたそうです。「もう一度明かりを灯して活性化したい」という母の想いが近所の方たちを動かしました。そして元スナックだったこの場所を皆さんで掃除したり、草刈りしたりして、なんとか開店までもっていったそうです。
その後つばき茶屋は、地元の人たちの憩いの場になっていきました。
奥能登国際芸術祭をきっかけに若者が移住
高屋は人口減少と少子高齢化が進む集落のひとつです。15年ほど前には、子どもがいる家庭は数えるほどしかありませんでした。でも不思議なことに私が知っているだけでも移住者は5〜6軒はあったと思います。たとえば、港があることがとても魅力的だと、富山から移住して釣りの仕事を始めた人がいます。でも地震のときの隆起で舟が流されてしまったので、この場所で同じ仕事を続けるのはちょっと難しいかもしれませんね。
そもそも高屋地区に移住者が増えたきっかけは「奥能登国際芸術祭」だったと思います。若者が芸術祭の開催期間中に滞在したのちにそのまま移住したというケースですね。彼らに「高屋のどこがいいの?」と聞くと、「自然や人、文化、そしてご飯がおいしい」と言いますね。
移住とは少し違いますが、つばき茶屋のスタッフのひとりも、Uターンしてきた珠洲っ子です。一度は能登を離れて外国に行っていましたが、今は実家を守るという目標をもってがんばっています。
地震で受けたさまざまな傷。そのなかで生まれたさまざまなご縁

番匠さん母娘の人柄がたくさんの人を巻き込み繋いでいきます
2024年元日。地震が起きたときは幸いなことに店は休業中で、私と母は珠洲市岡谷町の実家にいました。 1度目の地震後もしばらく揺れは続いていたのですが、まさかあんなに大きな揺れが続けて来るなんて思ってもみませんでした。
店に行ってみると床には大きな亀裂が走っていました。その程度の被害で済んだのは、このあたりの地盤が硬かったからかもしれません。店のある地域は、地震ののち10日間はテレビも携帯電話も電波が遮断されていたため、全然外から情報が入ってきませんでした。ようやく情報が入ってきたのは、二次避難で金沢に移動してからです。
地震前と比べて変わったことは、いい意味でさまざまなご縁が広がったことですね。このあたりの集落は瀬戸浦と呼ばれているんですけど、お店がなかったり、いいお医者さんがいなかったり、結構不自由なことが多いんです。そんなとき、ずっと能登を応援してくれて、母と仲の良い女優の常盤貴子さんがすぐに医療関係者につないでくれて、週に一度、お医者さんが来てくれるようになりました。昨年の9月には、つばき茶屋で常盤さんと仲間由紀恵さんとのお茶会を実施したのですが、たくさんの人が参加して喜んでくれました。
ボランティアに来るのではなく、ここで暮らしてほしい

「まだまだ地震を乗り越えた」という余裕はないと話すさとみさん
地震で失ったものは大きいと思います。それまで獲れていたサザエやアワビは地形の隆起により獲れなくなってしまうなど、漁業も深刻な打撃を受けましたし、何よりたくさんの人が家や仕事を失って、それまでの日常生活が送れなくなりました。そのなかで何より大きかったのは心の傷だと思います。ちょっとしたときに、地震の時の嫌な記憶や悲しい出来事を思い出してしまうんです。まだまだ地震を乗り越えたなんて言える気持ちの余裕はありませんね。
私の場合、暇だといろいろなことを考えちゃうので、忙しくしていたほうがいいみたいです。動いていたら気が紛らわせるし、人と喋っていれば、悲しかった出来事を笑い話に変えられるかもしれないですしね。
最近では、若い移住者たちがゲストハウスを作ったり、飲食の仕事を始めたりと、新しい動きも出てきています。ただ一方で、変化を受け入れるのが難しい空気もまだ残っています。長年ここに住んできた人たちにとって、見慣れた風景が変わることは、とても大きなことだからです。私自身も、これまでずっと見てきた景色が変わっていくことに少し動揺しています。
医療、住居、収入、そして働く場所……。地元にはまだまだ困っていることがたくさんあります。こういった問題は、若者が短期のボランティアに来てくれてもすぐには解決できません。だから最近は「来てほしい」よりも「ここで暮らしてほしい」、住んで暮らせる地域になるために移住者が増えてほしい、と思うようになりました。
訪れる人の心が温まる。そんな空間・時間を守り続けたい

「みんなが帰ってくる場所を守りたい」。さとみさんの願いです
地震から1年以上が経っても、仮設住宅から出られない、家から出られない、動く気力がないという人がまだまだたくさんいると聞いています。
私も正直、不安になることはあります。でも、あの震災を経た今、「人とつながる場」をなくしてはいけないと強く思うようになりました。母が立ち上げたこの場所が、少しでもその役割を果たせたら——。
だから、つばき茶屋を知っている人たちがお元気なうちは営業を続けていきたいですね。地元に残った人も、遠く離れて暮らしている人も、「ただいま」と戻ってこられる場所。帰ってきて、顔を合わせて、「おかえり」と言える空間を守り続けたいと願っています。
能登は、まだ復興の途中です。
私たちのような小さな茶屋ができることは限られています。でも、訪ねてくれた誰かが、この場所で会話を交わすことで、少し心が温まる。そんな空間、時間を、これからも静かに続けていけたらと思います。
「つばき茶屋」について
能登市の絶景スポット、ヤブ椿の群生地として知られる能登半島国定公園「椿展望台」と道を挟んで建つのが「つばき茶屋」です。「令和6年能登半島地震」「令和6年9月奥能登豪雨」で被害を受けながら、地域の人の帰る場所を守るべく、営業を続けています。2025年の今年も、冬季休業を経て4月18日より元気にオープン。たくさんの人の笑顔が溢れる飲食店として営業しています。
事業者プロフィール
取材後記
取材に訪れたのは2025年4月の終わりごろ。つばき茶屋は次から次へと途切れることなくたくさんの客が押し寄せていました。窓の外に広がる奥能登の絶景と、テーブルに並ぶおいしい料理。そしてきびきびとしたさとみさんとスタッフの接客。お客さんが途切れない理由は一目瞭然です。 店の一角では、さとみさんの母で女将のさつきさんが、地元の人と談笑する姿が。どこかで見たことのある人だなぁと思っていると、店の壁に女優の常盤貴子さんと撮った写真が飾ってありました。「あの時、テレビに出ていた人だ」とさつきさんとさとみさんを二度見。偶然見たテレビ番組でお二人が常盤さんと話していた場面と重なりました。常盤さんにとっても、つばき茶屋はきっと「『ただいま』と戻ってこられる場所」なのでしょうね。それはさつきさん、さとみさんが積み上げてきた優しさ、思いやりがあるから。そしてこれからもつばき茶屋は、たくさんの訪れる『人と人』をつなげる役割を果たしていくと信じてやみません。
米谷美恵(よねや・みえ、インタビューライター)
インタビューライターとして20年以上にわたり、メディアや企業、自治体など、さまざまなジャンル、媒体で2,000人以上の方々にお話を聞いてきました。好物は「人の話」。人、場所、物、想い。そのすべてに寄り添ったコンテンツ作成を心がけています。話し手の言葉に耳を傾け、ことばを整え、読んだ人の心に届くように形にしていく──。「対話から生まれる想い」を大切にしています。