石川県珠洲市の中心部。交差点の一角に、地形に合わせて削り取られたような独特の外観の建物があります。この小さな建物に集まるのは、奥能登にまつわる、誰かの記憶のかけらたちです。
北海道生まれで、現在は珠洲在住の西海一紗(さいかい・かずさ)さんは、奥能登国際芸術祭の広報・映像ディレクターとして活動するさなか、能登半島地震で被災。2025年5月から、珠洲・奥能登の記録を資料として保管・展示する“スズレコードセンター”で、プロジェクトリーダーを務めています。
「忘れないための記録だけではなく、忘れるために記録することもある」──西海さんの言葉には、この土地と人々に対する、静かな想いが込められていました。
[取材・写真・構成 伊藤璃帆子]
北海道から東京へ。そして、いま珠洲にいる理由

“スズレコードセンター”の西海一紗(さいかい・かずさ)です。
出身は北海道で、進学で上京したのち、都内の映像制作会社に就職しました。働いているうちに、生活が仕事のことばかりになってしまって、もっと自然の近くで、暮らしを大切にしながら仕事もできる環境を作りたいと思うようになりました。コロナ禍も重なり、そんな気持ちが強くなったタイミングで、知人から聞いた「珠洲」という場所に興味を持ちました。
珠洲市のことを調べ始めたら、大都市や観光地のように、メディアや他者のイメージによってすでに定義されている場所とは違う感じで、面白いかもしれないな、と。ちょうど、芸術祭の求人も出ていて、初めは「移住」なんて大げさなことでもなく、「とりあえず行ってみよう」という感じだったんです。そしたら、住めるおうちもすんなり見つかって。
珠洲に引っ越してきたのは2022年の5月のこと。映像の仕事を個人で受けたりしながら、芸術祭の広報係として珠洲の各地区で起きている作品制作の様子を記録して回りました。珠洲には10地区あって、地区ごとに特徴も生業も全然違います。撮影をしながら、土地のことをゆっくり理解していきました。

芸術祭を通して地域と関わっていくなかで、とてもたくさんの学びや感動がありました。なかでも印象的だったのは、珠洲市の山奥に位置する若山町北山(わかやままち・きたやま)という集落。ホタルの生息地として珠洲の中でも有名なこの地域では、住民のみなさんが一丸となって大事に大事にホタルを守っていました。
この土地でアーティストの小山真徳さんが「ボトルシップ」という作品を制作したのですが、制作前から地域のみなさんが作品プランを真剣に聞いてホタルや集落のことを思いながら意見する姿に胸をうたれました。芸術祭の期間中にも彼らはどこかから依頼があったわけでもなく、自主的に作品の前に立って、遠方から訪れる観光客の方々に作品の背景や地域の歴史を熱心に説明してくださっていました。また、来場者が増える週末などには、駐車場が混乱しないように、自分たちで話し合い、自主的にシフトを組んで交通整備を行ってくれていたのです。
「ここを訪れるすべての人に気持ちよく過ごしてほしい」という、地域のみなさんのやさしくてあたたかい思いがこの土地に通うたびにじわじわと伝わってきて、とても大好きな場所になりました。そして、自分もこんなふうに珠洲を訪れた人に自然なおもてなしができるようになりたいと思うようになりました。
この北山集落は珠洲のなかでも特に山奥ということで、震災から2年半が経ったいまでもライフラインがなかなか戻らず、地域のみなさんはいまだこの土地に帰ってくることができていません。
「記録することがすべてじゃないと思えた日」──センターが生まれるまで

第3回奥能登国際芸術祭終了から約50日後、地震が発生しました。これまで珠洲を訪れ、関わってくださったアーティストやサポーターの多くの方々から、「何か支援をしたい」という声が寄せられました。
しかし、芸術祭の運営母体である役場は、支援の申し出に対応できる状況になく、支援の声を受け止める場所がない状態でした。そこで立ち上がったのが、芸術祭に携わってきた東京の有志による「奥能登珠洲ヤッサープロジェクト」です。このプロジェクトの一つとして、記録に関する活動を行うことになりました。

記録の活動といっても、どう進めていったらいいか思い悩んでいたときに、せんだいメディアテークが立ち上げた「3がつ11にちをわすれないためにセンター」の活動と、コミュニティアーカイブに関する書籍に出会いました。この活動の立ち上げに関わっていた甲斐賢治さんに珠洲で記録活動をしていくにはどうしたらいいか、相談したのをきっかけに、私たちのプロジェクトにディレクターとして参加してくれることになったのです。

“スズレコードセンター”の改築が始まったのは2025年3月、冬の終わりを迎えるころでした。この時期、珠洲の街では、能登半島地震によって損壊した建物の解体作業がまだ続いており、重機の音が日常の一部となっていました。そのようななかで、新しく何かをつくり出すという行為には、どこか後ろめたさがあり、葛藤も伴っていました。しかし、被災したこの場所で、何かが始まっているという雰囲気は、この街のためにもなるのではないか。そう信じて、プロジェクトは動き出しました。

設計と施工は、関西を拠点とする建築集団「々(ノマ)」に依頼しました。彼らは既製の設計図に縛られるのではなく、その土地の状況や関わる人々の想いを汲み取りながら、ともに「つくり上げていく」スタイルを提案してくれました。そのため、最初から決められた図面があったわけではありません。プロジェクトの初期段階で決まっていたのは、「1階をコミュニティスペースとして地域住民に開かれた場にする」「2階を震災の記憶や街の歴史を展示・アーカイブする空間にする」という、核となる二つの機能だけでした。

改築の途上で、地元の製材所の方が現場に訪れてくれるようになり、彼が珠洲の山で育った立派な山桜の木材が手元にあると教えてくれ、「せっかくだから、このセンターの象徴としてキッチンに使ってみてはどうだろうか」と提案してくれたのです。さらに「この山桜の温かみを活かすなら、窓のフレームにも使ってみよう」というアイデアが生まれ、設計が変化していきました。
建物の内壁の仕上げ材についても、この土地ならではの素材が用いられました。北山で発生した土砂崩れによって、偶然にも良質な珪藻土が露出している場所が見つかったのです。施工メンバーと遠方から駆けつけてくれた助っ人合わせて20名ほどで現地まで珪藻土を取りに行き、センターの2階で丁寧にふるいにかけて不純物を取り除き、時間をかけて乾燥させ、建物の壁に塗り込みました。

振り返ってみると、このセンターの施工プロセス自体が、一つの巨大な「アーカイブ」であったと感じています。完成した建物だけではなく、皆で土を運び、その場所の匂いを嗅ぎ、手を動かし、汗を流したという一連の「体験」こそが、人の記憶のなかに、写真や文字とはまた違った深さで刻み込まれています。そういった生きた体験もまたひとつの「アーカイブ」なのだと。
瞳が光り輝く瞬間──アーカイブがもたらした奇跡

2025年5月1日、“スズレコードセンター”オープンの日には、「珠洲のアルバムをひらく夜」というイベントを実施しました。これは、窓をスクリーンに見立て、珠洲の昔の写真を一枚ずつ上映し、参加者全員で鑑賞しながら思い出を語り合う会です。
会場には約100名が来場されました。会場内だけではなく、建物の外にも多くの方が集まりました。
集まった地元の方々の瞳は、本当に輝いていて、写真にまつわる話が尽きることがありませんでした。きっと、震災後、片付け、解体、仮設住宅への入居といった出来事が立て続けに起こり、昔を振り返る時間がなかった時期だったからでしょう。そんななかで、50年ほど前の珠洲の風景写真を見て、皆で語り合う時間は、非常に意義深かったと感じています。

最も印象的だったのは、近隣に住む方が、投影された写真のなかにご自身のお母様を見つけたというエピソードです。センターで保管していた珠洲の朝市の写真のなかにたまたま写り込んでいた若かりし頃のお母様。「自分が生まれる前の母に、ここで会えるとは思わなかった」と、感謝の言葉を伝えてくださいました。この方との交流はその後も続いています。

朝市の写真が上映されたときには、朝市通りで手芸店を営む方が、とても楽しそうに昔話を聞かせてくれました。こうした心温まる出来事が、ほかにもたくさんありました。
昔の写真を見て、もしかしたら皆さんが悲しい気持ちになるかもしれないと心配していましたが、実際はそうではありませんでしたし、私もやってよかったと心から思いました。震災を経て変化した部分は当然ありますが、「街はこうやって時間をかけて変わっていくものなんだな」という感覚を持つことができました。変化を受け入れるような、前向きな気持ちになれたんです。
「忘れたくないものと、忘れるためのもの」──記録することの意味

珠洲の様子を記録し始めた2024年以降、私の心境には変化がありました。当初は、変わりゆく景色への「悲しさ」や「忘れたくない」という強い思いがあり、その感情を抱えての撮影は非常につらかった。「すべてを記録しきれない」という絶望感もありました。
しかし、解体されていく風景を見続けるうちに、「記録がすべてではない」「忘れずにいることが絶対ではない」という考えに至り、良い意味で割り切りができるようになってきたのです。

地震で被災したときに私が住んでいた家が解体されることになった際、その様子や好きだった場所を映像に収め始めました。撮影しながら、「これを撮っておけば、いつか思い出したくなったときにこれを見れば思い出せる。だから、一度忘れても大丈夫」と思えたのです。
それまで「忘れないために記録する」ことをしてきた私にとって、「忘れるために記録する」という発想は、大きな気づきとなりました。

センターの活動には、自主的な撮影と依頼されたものの両方があります。「出張レコード」という活動では、自宅の解体前など「記録を残してほしい」という方の元へ赴き、記録作業を行いました。昨年は、この記録活動を無償で約30件実施しました。「私たちが記録として残すので心配いりませんよ」という思いで、撮影に取り組んでいます。
このセンターが目指すことのひとつは「忘れてはいけないから記録を集める」場所ではなく、「忘れても大丈夫。ここに来れば記録があるから、安心して忘れよう」と思えるような、いわば「お守り」のような存在となることです。
「スズレコ」が求める、記録の関わりシロとは──

当センターでは毎年、珠洲の記録活動に携わる方々の作品や活動を紹介する「レコードフェア」を開催しています。
センター開設当初は、記録について共に考える仲間を見つけることに苦労しましたが、この展示の準備を通じて、改めて多くの仲間が増えたことを実感しています。私たちは、この「記録の輪」を今後もさらに広げていきたいのです。


被災してからの珠洲について「もう行ってもいいの?」と迷われている方も多いようです。初めて訪れる場所だと特に、地域との関係を築くのは難しく感じるかもしれませんが、当センターは「記録を通じて地域とつながる場所」として、土地の人々や地域との接点をつくる「きっかけ」となるようサポートし、皆様を歓迎しています。

珠洲の記録を、カメラや映像機材を使って行いたい方、地域の方々との交流を深めたいという思いをお持ちの方は、ぜひ当センターにお越しください。このような方々が集まることで、新しい共同活動が生まれることを期待しています。
取材後記

西海さんが故郷の北海道ではなく、なぜ奥能登を選んだのか。この疑問は、取材前から私にとって大きな関心事でした。実は、筆者も同じ北海道出身者だからです。
筆者が能登という土地に惹かれるのは、西海さんの言う「メディアや他者のイメージで固定化されていない場所」という点に集約されているかもしれません。北海道のダイナミックな自然も魅力ですが、奥能登には、心や体、生活に近いところで、ふとした瞬間に匂い立つような魅力が感じられるのです。
奥能登を歩き、人々と話すと、昔から日々の暮らしがいかに大切にされてきたのかが伝わってきます。それらを丁寧に記録していくという行為は、現代的な「映え」とは対極に位置しながらも、私たちが本質的に求める欲求を満たしてくれる力を持っているのかもしれません。

