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“和平商店”の「いか煎餅」はいかにして生まれ、いかに能登を変えたのか

“和平商店”の「いか煎餅」はいかにして生まれ、いかに能登を変えたのか

和平商店

更新日:2026年5月25日

 深紅のパッケージに浮かび上がるイカのシルエットと「能登いか煎餅(せんべい)」の文字。今や能登みやげの定番となっているこの煎餅は、能登町・小木(おぎ)港に面する小さな工場で約10年前に生まれ、震災を経た今も1枚1枚、丁寧に手焼きされています。その商品開発を手掛けた“和平商店(わへいしょうてん)”本部長の浅井英輝(あさい・ひであき)さんにインタビューすると、意外な開発秘話や地域への思いが飛び出しました。

[取材・構成 関口威人]

両親が始めた新規事業を手伝うためUターン

 私の両親、浅井和平(かずひら)と園子(そのこ)はもともと地元で旅館経営をしていました。しかし、60代になって別の親族に経営を譲り、2009年に新しく立ち上げたのが“和平商店(わへいしょうてん)”です。

 父親が社長で、母親が専務。一方、長男の私は家業を継ぐつもりはなく、東京に出て別の仕事をしていました。

 両親は北陸新幹線が2015年には東京方面から金沢まで開通することを見据え、「新幹線が通ったら能登に来る人も増えるだろう。何か能登らしいお土産をつくろう」と考えたそうです。ちょうどそうした趣旨の石川県の助成金が取れ、地元の小木港で水揚げされるイカを使った新商品の開発に乗り出しました。とはいえ商品開発なんてしたことはなく、5年ほど経ったところで私に「ちょっとだけ手伝ってくれ」と声を掛けてきました。

 私はその言葉を真に受け、休みを取って東京と能登を往復。最初は暇つぶし……とまでは言い過ぎかもしれませんが、ほんの軽い気持ちで手伝い始めました。

 それが、なんだかんだで1年ぐらいかかって「能登いか煎餅」という形になって、北陸新幹線の金沢開業にギリギリ間に合わせて発売したら思った以上に売れてしまった。私は「売れなければ東京に戻ろう」と考えていたのが、そのまま小木に居着いて今に至っている感じです。 当時は確かに「能登らしい」お土産って多くはありませんでした。のと里山空港に降りても富山の白エビやホタルイカのお土産ばかりで、「能登らしい」ものは本当に少なかった。だから何かちゃんとしたものをつくれば売れるだろうという予感は私にもありました。そして「煎餅ぐらいなら自分たちにもすぐできるだろう」と甘く考えていたのも事実です。

能登町の「イカの駅つくモール」で販売されている“和平商店”の「能登いか煎餅」(撮影:2026年3月 関口威人)
能登町の「イカの駅つくモール」で販売されている“和平商店”の「能登いか煎餅」(撮影:2026年3月 関口威人)

割れてばかりの試作品、偶然出会った「職人」が解決

 両親は当初、イカの「鉄砲焼き」や「一夜干し」「糀(こうじ)漬け」などを商品化していました。これらは今も販売していますが、一番の売れ筋である「鉄砲焼き」はイカのゲソ(脚)を使わないため、大量に余るゲソを有効活用できないかという発想から「煎餅」に。しかし、開発の最初の1年間は本当に苦労しました。自己流で試作品をつくっても、イカの風味がなかなか出ない。

 産業創出を支援する県の外郭団体に相談して専門家を紹介してもらったら、その方は料理研究家で、決して煎餅の専門家ではありませんでした。だから「煎餅っぽい」ものはできても耐久性がなく、能登で箱詰めをして金沢に送ると中身の半分は割れてしまっている状態。なぜ割れるのか、試行錯誤しても原因はわかりませんでした。

 そこで「もう一度、専門家を探そう」と父親が地元の信用金庫にキャリア人材を紹介してもらう制度に申し込んだら、たまたま煎餅職人をやめたばかりの人がいたんです。

 これは本当に運がよく、頼んだらその人がうちに来てくれ、煎餅のイロハを一から教えてくれました。割れてしまった原因は、煎餅のなかに水分が残っていたから。水分を出し切らないと割れてしまうので、生地づくりから焼く工程、その後の乾燥の工程までを徹底的に見直し、改善しました。

 もしその職人さんに出会えていなかったら、たぶん「能登いか煎餅」は発売できていなかったし、私は今ここにいないと思います。

「能登いか煎餅」の製造工程。小さく丸めた生地を専用の焼き機に並べる(撮影:2026年3月 関口威人)
「能登いか煎餅」の製造工程。小さく丸めた生地を専用の焼き機に並べる(撮影:2026年3月 関口威人)

風味を出すため「限界ギリギリ」までイカを入れる

 味に関してもいろいろと試行錯誤しましたが、これは特に母親のこだわりが最後の最後までありました。

 私は開発の途中で「100点満点の70点ぐらいだけれど、これで売り出そう」と割り切りました。でも、母親は「これじゃダメ、売れない」。どこにでもあるような煎餅の味ではなく、もっと特徴をつけたほうがいいと譲りませんでした。

 それから3カ月ぐらい、「他にないような味を」と母親があきらめなかったので、私も職人さんも正直、かなりイラついていました(笑)。

 一般的な煎餅というのはデンプンや小麦粉が多く、海鮮は「香り付け」に入っている程度でしょう。でも、うちは乾燥させて粉状にしたイカをたっぷり混ぜ込み、煎餅を形づくる成分の半分以上がイカ。これ以上イカを入れると今度は固くなりすぎて食べられないというギリギリの限界を狙った量にしています。

 アミノ酸などの添加物を使えば「それっぽい味」にはなります。でも、やっぱりどこか違う味になってしまい、母親が納得しなかった。イカを増やして風味を限界まで引き出したのがうちのこだわりで、いわば「ギリギリ煎餅の形を保っているイカ」になりました。

 こうして開発した「能登いか煎餅」を、最初は水産加工場の隅で、細々と手焼きしていました。保健所によれば、水産加工と煎餅のような菓子製造は同時にやってはダメなので、保健所の指導にあわせて朝早く煎餅を焼き、それが終わってから水産加工をやるというふうに時間をずらしました。

 しかし、売れ始めたらそれでは追いつかなくなり、煎餅専用の工場を増設。2020年6月に「イカの駅つくモール」が開業するとさらに需要は増え、もう一つコンテナの作業場も建てました。それでも手焼きは1日に1000枚から1500枚が限界です。今は10枚1300円(税別)で販売していますから、煎餅としては高級品ですが、それだけの手間とイカを注ぎ込んでいるということでご理解ください。

焼き機で焼き上がったばかりのいか煎餅。この後の乾燥工程も重要(撮影:2026年3月 関口威人)
焼き機で焼き上がったばかりのいか煎餅。この後の乾燥工程も重要(撮影:2026年3月 関口威人)

震災で2カ月の操業停止後、全国の物産展回りに

 そんななかで2024年元日、あの地震が起こりました。

 この工場の建物自体は半壊で済みましたが、敷地内の水道管があちこちで外れて断水が続きました。復旧を急いでいると、ありがたいことに全国から応援の注文が。1月中には在庫がなくなりましたが、まだ製造も出荷もできず、パートさんには雇用調整助成金を使って休んでもらいました。

 2月後半にようやく水が出て、製造を再開。3月に関東で開催された石川県の物産展に出店し、たくさんの方に商品を買っていただきました。

 その後も地元ではまだ販売できる場所がなかったので、例年はなにかと忙しくて断っていたゴールデンウィークやお盆の時期も含め、物産展を全国20カ所ぐらい回りました。すると地震によって売り上げが一時ゼロになったところから一気に売り上げが増え、2024年の一年間としては過去最高に。

 ただ、収支を考えると物産展は移動の経費などがかかって大した利益にはなりません。それでもよかったのは、工場を止めずに回し続けられたこと。公費解体して工場を建て直していたら、最低でも1年は時間がかかってしまいます。その間に従業員は他へ行ってしまうし、取引先もなくなっていたことでしょう。結局、震災前に8人だったパート従業員はその後、10人にまで増やせました。

“和平商店”の敷地内に立つ煎餅製造専用のコンテナ(撮影:2026年3月 関口威人)
“和平商店”の敷地内に立つ煎餅製造専用のコンテナ(撮影:2026年3月 関口威人)

「特需」は落ち着くも、課題は観光復活と「イカ不足」

 2024年の後半から2025年にかけては、ふるさと納税の返礼品の注文がすごく、生産能力を超えてしまったほど。1日にせいぜい25件分ぐらいしか送れないところ、一気に約3000件の注文が来て、地震後の注文を1年間かけて送り終えることができました。

 その特需というか全国からの応援の波は、2026年にはいってようやく一段落して落ち着いてきたという感じです。

 一方、地元の能登での売上は、震災前の半分ぐらいに戻ってきた程度。「イカの駅つくモール」は営業再開当初は1日3時間だけの営業だったり、2年目でもなかなか再開できなかった道の駅もあったりしました。ボランティアや業者さん以外の、本当の観光客が戻ってきてくれるかどうか、まだ先は見通せません。

 また、私たちにとってはもう一つの大きな問題があります。「イカ不足」です。

 小木港は地震による岸壁などの被害は大きかったのですが、イカ漁自体はすぐ再開できました。しかし、今はイカそのものがなかなか釣れなくなっています。

 これは、実はもうここ10年ぐらいの傾向で、水温の上昇や乱獲の影響などが指摘されていますが、本当の原因はよくわからないようです。

 日本海のスルメイカだけではとれる量が少ないので、能登の船が津軽海峡を通って太平洋まで出てアカイカ(ムラサキイカ)を釣ってくるという状況です。漁師は燃料代も上がっていて大変で、実際にやめてしまっている漁師も少なくありません。中型イカ釣り漁船は小木だけでかつては50隻ほどあったのに、2026年の今は7隻しかなく、全国でも30〜40隻しかないそうです。

 このため、水揚げされるイカの単価はこの10年で5倍ぐらいに上がりました。私たちの煎餅の値段を5倍にはできないので、サイズを小さくして、少し値段を上げて、またサイズダウンして……と調整を続けるしかありません。こんなに小さくて高いのに、売れるのかと不安になることもありますが、おかげさまで今のところは買っていただけています。ただ、それもいつまで続くのか。

 イカなら原料が切れることはないだろうと思って煎餅をつくり始めましたが、まさかこんなにとれなくなるとは予想もしていませんでした。

イカの巨大オブジェが目印の「イカの駅つくモール」。“和平商店”は施設内のレストランで提供されるイカの加工もしている(撮影:2026年3月 関口威人)
イカの巨大オブジェが目印の「イカの駅つくモール」。“和平商店”は施設内のレストランで提供されるイカの加工もしている(撮影:2026年3月 関口威人)

昔ながらのよさ生かしながら、若手で変えていく

 いか煎餅以外のものを含めた商品のバリエーションはだいぶ増えました。最初は3種類ぐらいしかなかったのが、今は12種類。味付けは味噌やしょうゆ(いしる)、塩、酒などで、能登の調味料を最大限、使うようにしています。

 しょうゆは能登で地震の影響を受けてつくられなくなってしまったものもあり、金沢のものも使っていますが、お酒は宗玄酒造や数馬酒造など、地元で残っているものをなるべく使うようにしています。松波酒造は今、量が限られて仕入れられなくなっていますが、若女将の金七聖子(きんしち・せいこ)さんとは昔からよく物産展などでご一緒しました。震災後はそれぞれに走り回ってきたので、ようやくこれから、私も能登に残った若手の一人としてみんなと協力して頑張るしかない。もう、生存をかけた戦いです。

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 能登の食材や景観のポテンシャルは、ものすごく高い気がします。私も食べるのが好きなのでいろいろ旅行するけれど、能登は水もお酒もお米も魚も、全部のバランスが取れている。そして田舎の景観がちゃんと残っていて、じいちゃん、ばあちゃんが自給自足で幸せそうに暮らしている。商売っ気がないところが、またいいんです。

 そういう昔ながらのよさを残しながら、新しい産業をつくって人口を維持していければ。難しい課題ですけれど、そこは能登に関わってくれる全国各地の人たちと一緒に、一歩ずつ変えていけたらと思っています。

 まずは「イカの駅つくモール」などで商品を手にとって、「能登いか煎餅」を味わっていただければうれしいです。

取材後記

 浅井さんから直に買わせていただいた「能登いか煎餅」を大事に名古屋へ持ち帰り、箱と袋を開けて1枚を実食。最初は「あれ、けっこう薄味?」と思いましたが、かむほどに味がしみ出てくる感覚。まさにスルメの味わいでした。

 小木港では豊漁を祈る伝統の「とも旗祭り」が今年も無事、ゴールデンウィーク中に開催されたそうです。「イカ不足」の問題は意外でしたが、ぜひ持続可能な範囲でイカがとれ、この煎餅の味がいつまでも保たれてほしいと願いました。

事業者プロフィール

和平商店

代表者:浅井和平 所在地:石川県鳳珠郡能登町字小木18-55 電話番号:0768-74-0055 FAX番号:0768-74-0089

記者プロフィール

関口威人

関口威人(ジャーナリスト)

1997年、中日新聞社に入社し、初任地は金沢本社(北陸中日新聞)。整理部記者として内勤を終えたあとに片町や香林坊で飲み歩き、休日は能登や加賀をドライブで走り回りました。現在は名古屋を拠点とするフリーランスとして、主にヤフーニュース東洋経済で防災や地域経済などについて執筆しています。
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