令和6年能登半島地震の発生以来、最も大きな課題を抱え続けているのは宿泊・観光業だと言っていいでしょう。あの日から風景や生活の安心感が一変してしまったなかで、ぜひ能登に来てと言えるのか、何を見てもらい、どんなおもてなしをするべきなのか——。輪島市中心部で民宿“お宿たなか”を営む田中孝一(たなか・こういち)さんは、「大人の隠れ宿」としてのこだわりを大事にしてきただけに人一倍、悩み続けています。その心境を語ってもらいました。
[取材・構成 関口威人]
「何がピンチかすらわからない」状況で膨らむ不安
今まで能登の観光というのは、どこかあぐらをかいていた部分があったと感じていました。「何もしなくても人は来てくれる」、特にここは「輪島」という名前や冠だけで人が来てくれるんじゃないかという、幻のようなものにすがっていたと思います。私は以前からそれが嫌で、自分から動いて情報を出して、人に来てもらうような形にしないとダメだと思って行動していました。それはほかの観光施設が思い描くものとは違う形だった。だからこそ「予約の取れない宿」と言われるほどお客さんに支持されてきたと自負しています。
しかし2024年の1月1日以降、風景から何からすべてが180度、変わってしまいました。今まで当たり前のようにあったものや過ごしていた生活がなくなってしまい、それらをもう一度新しく構築しようとすると、とてつもない労力がいることがわかりました。
私たちは宿泊業ですから「とにかく復旧・復興の人たちが泊まれる場所を提供する」との思いで地震後の1カ月ほどの期間で屋根瓦を直し、雨漏りを直し、畳を替えてその年の2月1日から営業を始めました。9月の豪雨では床上浸水しましたが、自分たちで泥を出して5日後には宿を再開させました。
そこから2年間、頑張ってきたんですけれど、その疲れが今どっと出てきている気がします。「震災疲れ」と言われればそれまでかもしれませんが。 この状況をチャンスとして受け止めていいのか、なくなったものを「もう終わった」ものと思ってしまった方が楽なのか、現時点ではわかりません。人は簡単に「ピンチはチャンスだ」と言いますけど、本当のピンチが見えてこなければチャンスも見えないと思うんです。「そのピンチってじゃあ何なの?」というのが見えない。ピンチすら見えないので、どうやってチャンスにするのかも見えないという状況なんです。

「輪島の魅力を凝縮する」宿のこだわりも……
民宿業は先代の父親が始めましたが、ここは川のそばで地盤が軟らかいため、建物を大きくするときに基礎として松の杭を50本近く入れたそうです。そのおかげで、木造3階建てでもあの大きな揺れに耐えられたんだと建築士から聞かされました。
一方、私は銀行員の仕事をしたあとに民宿を引き継ぎました。輪島の魅力を凝縮することをコンセプトに、食器はもちろん柱や床も輪島塗に。あえてスリッパを置かず、素足で漆を感じていただけるようにしています。
壁は珠洲の珪藻土を中心に、輪島の塗師蔵(ぬしぐら)をイメージした特別室は輪島でとれた土を使った本物の土壁で仕上げました。これらはあの地震でも大きな被害は出ませんでした。
食事も能登の食材をふんだんに使った創作料理を提供してきました。地震後は調達先が変わって毎日のように苦労していますが、これまでどおりの安全・安心でおいしい能登の食を味わってもらおうと努力しています。
それでも震災前と今では2、3割ぐらいしかお客さんは戻ってきていないんです。地震被害の修繕をしたうえで、この状況。前職が銀行員なので、どうしても仮にお金を借りたときの返済計画などをずっと考えてしまいます。復興のお金をいろいろ使ったとして、それを借金として日々の売り上げや月々の返済を考えると……。以前は「やればやるほど(完済に)近づいている」と感じていたのですが、最近は「やればやるほど遠ざかっている」ような気がして。その先が見えなくなっています。

行政頼みではなく「本当の観光」の目的づくりを
ある程度の復旧ができた時点で、能登への人の出入りは少なくなってしまいますよね。そのあと、一番大事にしなきゃいけない「観光のお客様」が本当に能登へ来てくれるでしょうか。今は「能登を応援したい」という方々に来ていただけているとして、それはある意味「お涙ちょうだい」の商売ではないかと思ってしまいます。本当の意味での「観光を目的に」というのが、私には見えてこないんです。
それはなぜかというと、現状で観光客を受け入れる態勢が能登にあるのかと問われると、「ない」と言わざるを得ないから。せっかく輪島に泊まっていただいたお客さんが「輪島塗のものが欲しい」と思っても、私からおすすめできる場所がない。そういう状況で本当に「観光」という名のもとに商売ができるのかという不安ばかりが募ります。
結局は、自分から動くしかありません。行政もたぶん何をやっていいかわからない状況に陥っていて、行政頼みになっていても仕方がない。結局は民間、自分たちの力で今を切り開くしかないのかなと思っています。
「見る観光」って、たぶん皆さん口に出さないだけで終わりましたよ。「見る」というのは風光明媚な部分を見ると思うんですが、それを「見せる」ではなくて「迎える」、歓迎の歓の「歓光」にしていかないと。地域全体でお迎えするような形に変えていかないと、人は来ないでしょう。
その歓迎というのもいろいろあると思いますが、旅行するときに目的がないと、その場所って選びませんよね。その目的をまずつくらなければなりません。「今行ける能登」というキャンペーンがありますが、私はもう一歩踏み込んで「今遊べる能登」「体験できる能登」を打ち出さないと、本当の観光目的のお客さんには来てもらえないと思います。
例えば、魚が揚がったらお客さんに自分で魚をさばいてもらい、天日で一日乾燥させて、翌日お帰りになるときにお土産として持ち帰っていただく。春は山菜をとりに行き、保存の仕方まで体験してもらう。それは仮設住宅にいる地元のおばあさんに声がけをして、講師になってもらえればいい。そうすると、ただ単に体験するだけじゃなく、「能登の人と触れ合ってもらう」ことができます。やっぱりその土地の人と触れ合って楽しんでもらうことが一番のお土産。それがまた能登に足を運ぼうとする目的づくりにもなると思っています。

能登全体で訪れる人の「分母」を増やさなければ
そのためにも、能登を訪れる人の「分母」を増やさないといけません。うちだけが頑張っても絶対ダメなんです。まず石川県を選んでもらって、能登を選んでもらって、輪島を選んでもらって、宿はうちでいいかなという形で。「輪島、輪島」とばかり言っていても、分母は増えません。
そうしないと結局、飲食店にしてもお土産屋にしても、みんな地盤沈下してしまいます。行政頼みで分母を増やそうと思っても、たぶん無理なんです。民間レベルで、本当に能登の分母を増やすということをやらないと。ひとつの地域だけがどれだけ頑張っても「能登を再生する」ことにはなりません。
そのために、私もそれなりに他の地域とのつながりはあるので、どういったところに協力を求めて、どういった仲間づくりをしていけばいいのか、震災3年目の今年、夏ぐらいまでには何とかしていきたいと思っています。
人生、必ずどこかで転換期は訪れて、その転換期が見える人と見えない人がいます。銀行にいたときも、本当に商売上手な人たちは、他人が思いも寄らない時期に業態を変えて、成功していました。そういった人たちは、直感的な部分に任せているように見えて、ちゃんと情報のアンテナを上げていたんでしょうね。
こちらからの情報だけじゃなくて、人が求めている、あちらが求めている情報を、どれだけアンテナを立てて拾えるか。それがこれからの生き残りに関わってくると思います。
私たちにとっては、輪島に行ってうちに泊まって、何を楽しめばいいのかというお客さんたちのニーズです。「こんなことができたら面白いのにね」という提案があれば、私たちはきちんとアンテナで受けて、「じゃあそれを具体化してみよう」という形にしたいのです。ぜひ、そんな話をたくさん聞かせていただきたいと思っています。

取材後記
取材をさせてもらったのは2026年2月下旬。まだ能登の空気は冷たく、人の動きも活発ではない時期でした。
それから、すっかり雪が溶け、桜が咲き始めたころ。田中さんに原稿案を送り、じっくり目を通していただくようにお願いしました。
そして人びとが動き回った大型連休が終わり、新緑がまぶしくなった今。ひょっとして田中さんの考えは変わったかもと思いましたが、「このままで大丈夫です」。田中さんの重い言葉や鋭い問題提起は、何一つ変わっていませんでした。
ライターとしては、ここまでネガティブに言わせてしまっていいものかと、心配になる気持ちもありました。しかし、じっくり時間を経て出されたOKの返事に、田中さんの強い意志と覚悟を感じました。それを輪島の観光業の人たちに限らず、全国の多くの人たちに受け止めてもらえればと思います。

