石川県輪島市の輪島朝市は、日本三大朝市の一つ、日本最古の朝市ともいわれています。奥能登を代表する風物の一つとして多くの人に親しまれ、海産物や野菜、乾物、工芸品が並ぶ露店の風景は、観光名所としてだけではなく、地域に暮らす人たちの生活と商いが息づく場でもありました。能登を訪れたことがある人なら、「輪島の朝市」と聞いて、あの通りの賑わいを思い浮かべる人も少なくないはずです。
2024年1月1日の能登半島地震は、その象徴的な風景を一変させました。地震に続いて起きた大規模火災によって朝市通り一帯の商店、住宅などはほぼ全焼し、焼け残っても全壊・半壊など大きな被害を受けました。元日は朝市の営業がありませんでしたが、露店主たちは露店を出す場所そのものを失い、自宅や作業場などが損壊しました。
それでも輪島朝市はなくなりませんでした。輪島を離れ避難した先で「出張」という形で商いの灯火をともし続けました。2024年3月から金沢市金石(かないわ)港で始まったイベント型の「出張輪島朝市」、そして7月には輪島市内の商業施設「ワイプラザ」で毎日の営業が復活しました。その後、奥能登豪雨で再び危機を迎えましたが再び立ち上がり、朝市通りの復興に向けた議論や計画を進めながら、町の人たちは未来の朝市へ向けて歩んでいます。
今回お話をうかがったのは、輪島朝市組合の組合長・冨水長毅(とみず・ながたけ)さんです。令和6年能登半島地震から2年余、何を守り、どんなことに悩み、どんな未来を描いてきたのか。冨水さんの言葉から、今の輪島朝市の姿をたどります。
[取材・構成 坂下有紀]
火災の煙が残る朝市通りで、現実を知った
輪島朝市組合の組合長をしている冨水長毅です。私たちはこの歴史ある輪島の朝市の灯火を、震災や豪雨に負けず守り続けたいと思っています。

ご存知のように、朝市のテントが並んでいた輪島市河井町本町通り、通称・朝市通りは令和6年能登半島地震と直後に発生した火災によって甚大な被害を受けました。約5万平方メートル、200軒を超える建物が焼失し、現在は建物が解体されて更地になっています。
2024年の元日に地震が起きたあと、私もすぐに朝市通りへ行けたわけではありません。輪島市内はどこも被害が大きく、道路の状況も悪くて発災から2日後にようやく現地に行くことができました。そのときも、まだ火災の煙がくすぶっていました。焼けた匂いが残っていて、商店街の建物が崩れ、いつも露店が並んでいた場所がなくなっていました。私たちにとって朝市通りは、商売の場所であると同時に、暮らしの一部でした。その当たり前の景色がなくなってしまったんだと、そのとき強く感じました。


被害は朝市通りだけではありません。組合員の多くが自宅や加工場を失い、店を出す場所も、商品をつくる場所も、暮らす場所も同時に被災しました。朝市通りには輪島塗や土産品の店も多くありましたが、その被害も本当に大きかった。
私も自宅や加工場を被災しましたが、まず自分のことよりも、仲間たちがどうしているのか、これからどうやって商売を続けるのかを考えないといけない立場になりました。
金沢・金石港から始まった「出張輪島朝市」
震災のあと、私たちは「朝市をどこで再開できるのか」という問題に直面しました。朝市通りは火災で焼けてしまい、すぐに露店を出せる場所はありませんでした。
そんなときに声をかけてくれたのが、金沢市の金石の皆さんでした。金石は昔から港町として栄えた場所で、輪島とは北前船の寄港地としても縁のある土地です。そういう歴史的なつながりもあって、「金石で朝市をやりませんか」と言っていただいたんです。

2024年3月23日、金沢市金石の県漁協金沢支所周辺で、最初の「出張輪島朝市」を開催しました。発災からおよそ3か月、輪島朝市としては久しぶりに店を並べる日でした。当日は、海産物や農産物、工芸品などを扱う朝市の店が約30店近く参加しました。さらに金石の水産加工店や和菓子店など、地元のお店も出店してくれました。


会場には、朝市の象徴でもあるオレンジ色のテントが並びました。食品をその場で食べられるスペースも用意してもらって、朝市の魅力の一つでもある「食べ歩き」も楽しめるようになっていました。さらに、輪島と金石の子どもたちによる太鼓や合唱のステージもありました。朝市という商いの場でありながら、町同士の交流の場でもあったと思います。
暮らす場所も作業場も十分ではないなかで、出店者のみんなが商品を準備してくれました。「また朝市ができる」そのことを、お客さんだけではなく、私たち自身が一番感じた日だったかもしれません。
常連のお客さんが顔を見せてくれて、「来れてよかった」「また会えてよかった」と声をかけてくれました。露店主たちも「待ちに待った」「忙しいけれど楽しい」と話していて、震災以来ふさいでいた表情が少し明るくなったように感じました。

出張朝市という形で朝市を再び開くことができたのは、金石の皆さんの協力があったからこそでした。あの日の金石での朝市がなければ、「出張」という新しい形の朝市は生まれていなかったかもしれません。

その後、出張朝市は県内外へと広がり、2年間で300回以上開催されるようになりました。数字だけを見ると大きく感じるかもしれませんが、その1回1回には、本当に細かな準備が必要です。会場の手配をして、誰が参加できるかを確認し、商品をどう運ぶか、移動手段や宿泊、開場・撤収時間まで含めて段取りを整えます。そういう段取りを全部整えないと、出張朝市は成り立ちません。
そこを支えてくれているのが、事務局長の橋本三奈子(はしもと・みなこ)さんたちです。今は3人体制で動いていて、出張先ごとに何十回もやりとりを重ねて、ようやく1回の朝市が開けます。お客さんから見ると1日のイベントかもしれませんが、その裏にはそれだけの積み重ねがあります。私1人では到底できません。私は代表として挨拶に行ったり、外との調整をしたりすることが多いですが、事務局の3人がしっかり動いてくれているからこそ、出張朝市は機能しているんです。

▶︎シロシル能登
橋本三奈子さん(株式会社美味と健康/出張輪島朝市)の記事
輪島の塩、出張輪島朝市、能登の伝統を新世代へつなぐ“美味と健康”の挑戦
輪島に戻れない人も、金沢で商いをつないでいる
震災のあと、多くの人が金沢や加賀方面に広域避難しました。仮設住宅の入居が始まっても輪島へ戻れなかった組合員もいました。今も金沢で生活している人たちがいますし、輪島に住まいはあっても加工場が使えない、家が直らないという人もいます。そういうなかで、金沢に共同の加工場をつくって、そこで商品をつくり、出張朝市へ持っていく動きも生まれました。
震災直後の金沢市金石港での第1回出張朝市をきっかけに、金石に加工場を構えたチームがあります。家賃を払って共同で使いながら、魚を加工して出張朝市に持っていったり、ネット販売をしたりしています。輪島へ戻れないから終わりではなく、その場所でできることを形にしているんです。


2024年7月、ようやく輪島で朝市が開けた
出張輪島朝市を県内外で続けながら、やっぱり強く思っていたのは「輪島でやりたい」ということでした。輪島から離れられない人がいます。高齢の方も多いですし、遠くまで出かけられないけれど、朝市で買い物をしたい、朝市の人たちの顔を見たいという方もたくさんいるはずです。

私たち朝市の人間にとっては輪島が基本ですから、輪島で朝市ができる場をつくることは本当に大切でした。2024年7月10日、その思いがかない輪島市内の商業施設「パワーシティ輪島ワイプラザ」で「出張輪島朝市」を始めることができました。
震災後、輪島の地で初めて、組合員が集結して朝市を開催したのがこのときです。ワイプラザの店舗内にオレンジ色のテントが並び、それまで出張朝市に参加できなかった組合員や、輪島に残り続けた組合員も多数参加してくれました。輪島で朝市が開けたということ自体が、私たちにとっても、お客さんにとっても大きな意味を持っていました。


輪島朝市組合は2026年4月時点でワイプラザに出店しているのが38店舗、48名ほどの組合員で、金沢の方にも約20名がいます。震災前は朝市通りに約160の露店が並び、組合員数は190人ほどでした。以前は1事業者が3ブース、5ブースとスペースを使って、家族で何人も入って営業していたところもありましたから、単純に店舗数が減ったと計算できませんが、以前の規模には及ばないことは確かです。
組合員のなかには輪島から離れて暮らす人もいますし、店は出せても家業全体の復旧までは手が回らない人もいます。それでも、ゼロにしなかった、輪島朝市の名前を消さなかったこと自体に意味があると思っています。また、少しずつ参加する人が増えてきたことも復興へ向かっている確かな一歩だと思っています。
奥能登豪雨で再び被害を受けても、商いは止めなかった
ワイプラザでの朝市には、観光客だけではなく、地元の方、輪島から離れられない高齢のお客さまが来てくれました。私は昔から、朝市は観光のためだけではなく、市民にも通ってもらえる市場でありたいと思ってきました。ワイプラザでの営業は、その意味でも大事な時間でした。
しかし、ようやく輪島で営業を再開できたと思った矢先、2024年9月21日に奥能登豪雨が発生しました。ワイプラザや露店主たちが入る仮設住宅が冠水し、また大きな被害が出ました。地震のあと、やっと少し前に進めるかもしれないというところで、もう一度足元をすくわれるような出来事でした。
それでも、私たちは営業をやめませんでした。ワイプラザの施設は比較的早く復旧し、営業を再開することができましたし、店主たちも何とか商売を続けてきました。「輪島で商売を再開できてうれしい」「遠くから来てくれるお客さんが励みになる」と話す人も多いのです。

実際、お客さんが買い物に来てくれるだけで本当に力になります。朝市は対面販売だからこそ、会話のなかでお互いに元気をもらうことがあります。震災のときどうしていたか、豪雨のあとはどうだったか、今どんな暮らしをしているか。そういう話がその場で自然に交わされるんです。
2024〜2025年はボランティアや解体業者の方もたくさん来てくれました。2026年に入って来客は少し減りましたが、3月以降はバスツアーの来訪予約もたくさん入ってきています。道路の状況も少しずつ改善してきていて、車で移動しやすくなってきました。輪島や能登へ来てもらって、買い物をしてもらうことはもちろんですが、被災地がどう変わっていくのか、その風景も含めて見てもらうことに意味があると思っています。


元に戻すのではなく、よりよい復興と関係づくりを
今、朝市通りの復興に向けて、いろいろな話し合いを進めています。2024年10月からワークショップが4回開催され、輪島朝市組合と本町商店街のほか、中小企業基盤整備機構、UR、都市機構などにも入ってもらいながら、朝市エリアの今後について議論してきました。これまでも市長に提案を出してきましたし、これからも引き続き提案していきたいと考えています。

ただ、私は「元の形にそのまま戻せばいい」とは思っていません。もちろん場所は元の輪島市河井町本町の朝市通りに戻したい。でも以前と同じに戻すだけでは、先細りしていく可能性があります。
震災前から集客の課題はありましたし、衛生面の問題もありました。保健所から厳しい指摘を受け、営業許可証を取り直して何とか対応してきましたが、今後は特に鮮魚を扱うなら、電気や冷蔵設備、水道、手洗い場の整備が重要になってきます。屋根があれば、雨や雪の日でも営業しやすいし、お客さんも安心して買い物ができる。テントを毎日出したり片付けたりする負担も減ります。
これからの朝市は、きちんとした区画の中に設備を整えた新しい形も必要だと考えています。衛生面をクリアした施設・設備をつくり、工芸品や軽トラ市、キッチンカーなども含めて、今までにない朝市にしたい。ピンチをチャンスに、もう一度100万人に来ていただける朝市、そして輪島の市民にも通ってもらえる朝市をつくりたいと思っています。
朝市通りには、私たち輪島朝市組合だけではなく、本町商店街の人たちも関わっています。もともと商店街の中に朝市がテントを並べて出店している形でしたから、建物の商売と露店の商売が隣り合っていました。昔はいろいろと難しさもあって、お客さんがたくさん来れば競合する場面も正直ありました。
でも、今はそういうことを言っている場合ではありません。震災で一度全部崩れたからこそ、前よりも協力し合える関係をつくらなければいけない。本町商店街の方々とは震災直後からずっと会話を重ねてきました。前の輪島に戻すのではなく、もっと良い輪島、新しい輪島をつくらないといけない。その思いは、出張朝市を始めたときから変わっていません。
組合長として、事業主としての復旧・復興
私は輪島朝市組合の組合長ですが、自分自身も被災者です。自宅は半壊で、修理してもらうにも1年待ち、2年待ちが当たり前という状況です。作業場は3か所ありましたが、そのうち1か所は全壊して公費解体しました。残る作業場もまだ十分に復旧できていません。
うちは祖母の代から、いしる(魚醤)や糠漬け、昆布漬けのような発酵食品を製造販売してきました。今も海産物の珍味を売っていますし、その家業を残していきたいという思いがあります。でも、いちばん大事な作業場がまだ復旧できていません。いしるも、無事だった樽から使って販売していますが、加工が再開できないため、在庫がどこまでもつのかという不安もあります。さらに、海底隆起した影響で輪島港は深刻な港湾機能不全が続いているので、魚の水揚げは4割程度に落ち込み、地元産の魚介を仕入れることが難しくなっています。

それでも、今は自分の商売だけを見ているわけにはいきません。組合長として、まずは組合のみんなのことを考えないといけない。朝市をしっかり続けていれば、自分の家業も並行して何とかやっていけるかもしれない。そう思いながらここまでやってきました。月に1回、2回は県外の出張朝市にも行っていますし、売り上げは以前より厳しくても、何とかやっていけるところまでは来ています。
ただ、元の場所で営業できるようになるには、まだ4、5年かかると言われています。市のまちづくり協議会の発表で初めて「5年」と聞いて、「まだそんなにかかるのか」と驚きました。1日でも早く、1年でも早く戻りたい。しかし、復興の予算がついても、それを受けてくれる工事業者がいない。人手も足りない。材料費も高騰している。半島という地理的な条件もあって、思ったようには進まない現実があります。時間が経てば経つほど、工事費も上がっていくのではないかという不安もあります。
だからこそ、待っているだけではなく、今できる形で朝市を続けて、戻る場所と、戻ったあとの運営体制の両方を整えていかなければいけないと思っています。
次の世代へ、少しずつバトンを渡していく
震災から2年が経ち、朝市組合のなかでも変化が出てきました。止まっていた組合の役員改選もようやく動き出して、2027年2月末には総会を開いて、新しい役員体制にする計画です。今度の理事は40代、50代が中心になり、かなり若返ると思います。息子さんや娘さんに名義を変える組合員も出てきていて、少しずつ代替わりも進んでいます。

私は商工会議所の副会頭をはじめ、経済団体や観光関係など、いろいろな役職も担っています。輪島朝市は復興のシンボルとして位置づけられているので、関わってほしいと頼まれることも多いのです。ありがたいことですが、たくさんの会議に出席したり、1人で全部を抱えるのは限界があります。
だからこそ、実際に動いてくれる若い世代が必要なんです。会議に出て話を聞いてきてくれる人、事務局を支えてくれる人、情報発信をしてくれる人。今後2、3年が本当の正念場だと思っています。事務局の橋本さんたちも頑張ってくれていますが、朝市の未来を考えるなら、もっと若い人たちが自然に関われる体制をつくらなければいけません。
関わりシロ
今の輪島朝市を支える関わり方は、決して特別なことばかりではありません。とにかく輪島に来てほしい。その一言のなかに、今の輪島朝市に必要なことが詰まっていると思っています。
1)出張輪島朝市でお買い物
まずは輪島へ来て、出張輪島朝市で買い物をしてくださることが、何より大きな支えになります。ワイプラザでの朝市でも、県内外での出張朝市でも、店の人たちはお客さんと会い、話すことを励みにしています。
2)若手のサポート(組合員・ボランティア)
組合員のなかでも世代交代したり、震災前は商店街でお店をしていた方が朝市組合に加入されるなど、組合内の若返りが進み、今後の若い世代の活躍に期待しています。しかし自分たちだけでは手が足りない部分もあります。例えば、スマートフォンを使った電子マネーの設定登録や各種申請、情報発信、事務局の補助など、高齢の組合員だけでは対応が難しいことも少なくありません。「こういうことなら手伝える」という関わり方を考えてくれる人がいると助かります。
3)輪島の今を知ってほしい
復興は終わっていませんし、「もう元に戻ったのかな」と思われることもあれば、「まだ行ってはいけないのでは」と感じている人もいます。でも、来てもらって、見てもらって、買い物をしてもらうことが、今の輪島には本当にありがたいことなのです。
取材後記
輪島の朝市通りが地震と火災で失われたことは、多くの人にとって衝撃だったと思います。私自身も2024年から2年余、幾度となく訪れ、公費解体が行われるまでも時間がかかり、痛々しい姿が長く続いたと感じましたが、それ以上に輪島朝市通りに再び賑わいが蘇るまでには長い時間がかかるようです。
けれど、ただ時が過ぎ復活の日を待つだけではなく、朝市の皆さんはできるところから、コツコツと準備を進められている。冨水さんのお話をうかがって「元に戻す」だけではなく、「新しい朝市をつくる」と語られていたのが印象に残っています。
朝市の露店は常設ではなく、テントの設営・撤去を毎日繰り返す必要があり、冷蔵や水道設備も使いにくい状態だったので、震災を機に新しいやり方を導入しようとされていました。衛生面や設備、若い世代の参加、市民にも通ってもらえる市場としてのあり方。震災前の姿をただ再現するのではなく、災害を経た今だからこそ必要な朝市のかたちを考えていることに、強い意志を感じました。
1,000年以上も続いてきた朝市は、きっと過去にも災害や戦乱などの苦境に直面したこともあったことでしょう。当時の人たちも工夫や試行錯誤を重ねながら、営みを今につないできたのではないでしょうか。震災により「出張」というかたちで営みをつなぎ、次の時代へと進もうとする輪島朝市の復興を応援したいと思いました。まずはお買い物から。おばちゃんたちとの会話で、輪島朝市通りの記憶が蘇ります。

