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「何もしない贅沢」に心満たされる──海辺の古民家宿“奥能登じろんどん”

「何もしない贅沢」に心満たされる──海辺の古民家宿“奥能登じろんどん”

奥能登じろんどん

更新日:2026年4月23日

 石川県鳳珠郡能登町。七尾北湾に面した内浦長尾(うちうらなご)という小さな集落に、築140年の古民家を一棟貸しにした宿があります。波の音が響く海辺の集落で、ただ「空っぽに満たされる」時間を過ごせる場所です。

 2024年の震災直後は、全国から駆けつけた復旧事業者たちの拠点として機能しました。あれから2年。建物を直して本来の宿としての歩みを進めるオーナーの水上志都(みずかみ・しづ)さんに、能登の「いま」と、自然と一体となって暮らす移住生活を伺いました。

[取材・写真・構成 伊藤璃帆子]

凍る洗い桶に、山盛りの茄子。能登らしい豊かさを感じて

”奥能登じろんどん”のれんの前に立つ、オーナーの水上さん

”奥能登じろんどん”の水上志都です。
 出身は茨城県で、社会人になってからは都内でIT関係の仕事をしていました。やりがいはありましたが、40歳を前に「この日進月歩のスピード感でずっと働き続けられるか」と立ち止まったんです。ITから離れるなら、固定費が高い東京で暮らす必要はない。だったら地方へ移住することも視野に入れて考えてみようと。

入口から入ってすぐの土間
入口から入ってすぐの土間

 移住先を能登町に決めたのは、能登空港で当時の町長たちに声をかけられたから。移住コーディネーターの方と待ち合わせしていたのですが、急遽来れなくなって、代わりにお話をしてくれたのが町長でした。

 彼らが切々と語る地域の課題。地方の生活は良い面と悪い面の両方がある。それを隠さずに話してくれたので、心が決まりました。

能登の雪景色
能登の雪景色
玄関に置かれた、お野菜のお届け物
玄関に置かれた、お野菜のお届け物

 能登には畑をやっている方が多くて、「おすそわけ」の文化も量が違います。近所のおばちゃんが茄子を持ってきてくれたと思ったら、別のおばちゃんが「誰からもらったの? うちの茄子の方がうまいわ!」と対抗してきて、気づけば家に8kgの茄子がある。

 車社会なので、歩いている人は珍しがられます。散歩をしているだけで「どこいくの?」って車を止めて声をかけてくれる。飾らない日常だけど、幸せなんです。

波音だけが響く海辺で始まった、何もしない宿づくり

“奥能登じろんどん”の目の前の風景。波の音がBGM
“奥能登じろんどん”の目の前の風景。波の音がBGM

 能登での仕事も軌道に乗り始めたころにコロナ禍がありました。そのときは、食品卸の仕事をしていて、取引先である飲食店は休業を余儀なくされ、私の仕事も継続の目処が立たなくなってしまったんです。

 そんなとき、不動産屋から相続人が手放そうとしている古民家があることを聞きました。良い方が見つかればいいなと思っていましたが、なかなか決まらない。もともと西尾家という集落有数の長尾の次郎右衛門の屋号を持つ一族が住んでいたそうで、名士といった意味合いの「どん」を組み合わせて「じろんどん」と呼ばれるようになった立派な古民家。

 このまま買い手が見つからなければ解体されてしまうと聞き、「もったいない。買い手がつかないなら、私が買いたい」と申し出ました。

“奥能登じろんどん”外観

 でも、当時はまだ、宿にするなんてことは考えておらず、用途を考えずに、家を買ってしまいました。自分が住むということも考えていませんでした。なぜなら、その集落は雪が降らないから。私は雪が積もる場所に住み続けたかった。

 波の音がずっと聞こえる海沿いの住宅街。周辺にはアクティブな観光コンテンツがほとんどありません。この場所で波の音を聞いているうちに、宿にすることを思いつきました。宿に入ってずっとぼーっと外を見る「空っぽに満たされる宿」をやってみたくなったんです。

ここで「空っぽになる」時間を過ごす
ここで「空っぽになる」時間を過ごす

 都会からやってきて、何もない場所に身を置く。その「何もなさ」こそが実はとても豊かで、ただ海を眺め、波の音を聞くだけで心が満たされていく。そんな時間を過ごしてほしいと思いました。

 ただ、ここに外からの人を集めることで、集落の人たちに不都合があっては困るので、工事の前や完成後には「家開き」をして中を見てもらいました。「古い家も手を入れるとまだまだ住めるんだね」と、地域の方々が見守ってくれる温かい環境のなか、2023年7月に宿として開業しました。

水回りはフルリフォームして、ホテルライクな仕上がりに
水回りはフルリフォームして、ホテルライクな仕上がりに
広い洗面所──と思いきや、実は左手には鏡が設置されており、外の景色を取り込んで広々と見える仕組み
広い洗面所──と思いきや、実は左手には鏡が設置されており、外の景色を取り込んで広々と見える仕組み

 水回りだけはきれいにリフォームして、他は極力手を入れないようにしました。大きな家屋の中は少し暗すぎるように感じるかもしれないですが、これは、日本の伝統的な空間における美意識の表れで、お客様に説明すると感心されるポイントです。

この暗さも日本家屋ならではの魅力のひとつ
この暗さも日本家屋ならではの魅力のひとつ

 作家・谷崎潤一郎の随筆『陰翳礼讃(いんえいらいさん)』で語られている「影の魅力」というものがあります。強い光ですべてを照らす西洋の美学とは異なり、日本家屋では、柔らかな光と深く濃い影のコントラストにこそ静謐な美が宿るとされてきました。

 都会の「明るさ」から離れ、「空っぽに満たされる」というこの宿のコンセプトは、まさにこの陰翳が生み出す静かな豊かさと共鳴しています。

震災復旧拠点を経て、本来の宿泊施設として再開

土間部分に設置されたキッチン

 古民家宿として本格的なプロモーションを始めようとしていた矢先に、地震が起きました。私は“じろんどん”から車で40分ほどの自宅にいたのですが、そこは地震の影響で携帯の電波も入らなかったため、しばらくの間は“じろんどん”が無事かどうか確認する術がありませんでした。 

 電波が入るようになった2日か3日目に、内浦長尾の町内会会長に連絡を入れることができ、電話のひとこと目に「水上さん、じろんどん大丈夫だよ、心配しないで」と。会長は、鍵が閉まっていて中は見れていないと言いつつ「どこも倒れたり壊れたりしていないよ。大きな家は頑丈だね」と話してくれました。

 無事だったことに安堵すると同時に、ありがたさで胸がいっぱいに。自分たちも被災して大変な状況なのに、“じろんどん”のことまで様子を見に行ってくださっていたんです。

 そこからしばらくは、全国から来る復旧事業者さんたちの拠点となりました。「暖がとれて寝られる場所があればいい」と問い合わせが絶えませんでした。当初は支援に来てくれている人からお金を取っていいのかわからず「お気持ちで」としていました。しかし、支援に来た医療チームの方から「必要最低限のお金しか取らないことで宿が経営できなくなったら、困るのは僕たちです」と諭され、それから適正な料金をいただくようになりました。

日差しが差し込む、現在の共有スペース。元の穏やかな空間を取り戻した

 あれから2年。これからのメインは、通常の宿としての“じろんどん”をしっかり運営していくことです。

 長期でお貸しすると、どうしても自分の家のように使われてしまい、宿としての空間維持が難しくなるということもありました。だからこそ環境を整え直し、私たちが本来目指していた「空っぽに満たされる」コンセプト通りの宿として、観光のお客様をお迎えしていきます。そろそろ、こちらが本業です。

10年後の能登に泊まる場所を残すための、しなやかな連携

この道具は「酒卓」というもので、輪島の木地屋が作り、塩安漆器工房で「拭き漆」でしあげたもの
この道具は「酒卓」というもので、輪島の木地屋が作り、塩安漆器工房で「拭き漆」でしあげたもの

 今、私は“じろんどん”の経営と並行して、被災した宿泊事業者有志で立ち上げた任意団体「のとの宿観光防災ラボ(のと宿)」の仕組みの検討を始めています。のと宿の目的は、「被災地に旅をする」ことの不安の解消と、「観光客の呼び込み」を宿泊施設から始める&発信していくことです。能登町にある宿泊施設の8割は家族経営の民宿で、経営者は60〜70代。このままでは10年後、観光客の泊まる場所がなくなってしまいます。

 そこで考えたのが、宿単体ではなく「地域で共同運営する道」です。これは観光事業を継続するのに大事な「資源」となります。複数の宿をシェアし、掃除の人材を共有したり、町全体で予約を受け付けるセンターを立ち上げたりする。「この地域に予約をとる」仕組みづくりを少しずつ進めています。

“じろんどん”に置かれている漆器。料理が映える器で食事会を開催してみては?
“じろんどん”に置かれている漆器。料理が映える器で食事会を開催してみては?

 そこで、能登の内外にいる皆さんに提示したい「関わりシロ」があります。

 ひとつは、新しい働き方での宿泊業サポート。朝は宿の仕事、昼は別の事務仕事といった「複業・マルチワーク」ができれば、地域全体の人手不足を補い合えます。

 また、定住しなくても月の半分だけ支援活動に来る方や、スキマバイトアプリを活用して宿を手伝ってくれるような短期の関わりも大歓迎です。

 現在、能登では料理人が不足しているので、飲食店はもちろん、宿泊施設でもご飯を食べるのが大変な状況です。料理人の方に「出張シェフ」として来ていただき、宿で料理を振る舞っていただくような体験型の関わりも求めています。

 どんな形であれ、一緒に能登の未来を考え、共に歩んでくれる人たちと繋がっていけたら嬉しいです。

取材後記

「何もしない贅沢」を体現する“じろんどん”

 都会からやってきて、何もない場所に豊かさを見出し、それに満たされる。そんな「何もしない贅沢」を体現する“じろんどん”は、震災から2年を経て復旧拠点の役割を一段落させ、本来の姿へと歩みを進めています。

 自分の宿を守るだけではなく、能登の民宿文化全体をどう残すかというスケールで動く姿と、地域とゆるやかにつながる関わりシロは、これからの新しい地方創生の形を教えてくれています。

事業者プロフィール

奥能登じろんどん

所在地:石川県鳳珠郡能登町内浦長尾7-7 代表者:水上志都

記者プロフィール

伊藤璃帆子

伊藤璃帆子

コラムニスト&フォトグラファー、たまに料理人。デジタルマーケティング会社勤務を経て、コンテンツプランナーとして独立。企画から制作までワンストップで手がけるマルチクリエイター。また、料理家としても活動中。ケータリングユニットを主宰し、アートな食空間を提供している。 Instragram @catering_unit_sessio Facebook 伊藤 璃帆子