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能登半島の先端部を守り、祈りをつないできた“須須神社”がいま「人が集う神社」をめざす理由

能登半島の先端部を守り、祈りをつないできた“須須神社”がいま「人が集う神社」をめざす理由

須須神社

更新日:2026年4月12日

 能登半島の先端部に位置する須須神社(すずじんじゃ)は、遠い昔から「東北鬼門の守護神」と呼ばれてきた。その創建は、崇神天皇の御代、約二千年以上前にさかのぼると伝えられている。始まりは、能登半島最北端にある山伏山、かつて鈴ヶ嶽(すずがだけ)と呼ばれた山の頂。その後、稲作が伝わり、穏やかな内海側に村が形成されるなかで、神様もまた人々とともに場所を移し、現在の地に祀(まつ)られた須須神社は、人々の祈りとともに存在し続けてきた。

 しかし今、須須神社は存亡の岐路に立たされていると、禰宜(ねぎ)である猿女千鶴(さるめ・ちづる)さんは危惧している。神社を守っていくためのお知恵をいただける方を、地域のみならず全国から募りたいと話す猿女さんに、須須神社の現状と今後の展望について聞いた。

[取材・構成 米谷美恵/撮影協力 水口幹之]

神域に入ることなくせき止められた5メートルもの津波

被害が少なかったとはいえ、ゆがみの修復が必要という拝殿。内部はさまざまなものが散乱したままだ
被害が少なかったとはいえ、ゆがみの修復が必要という拝殿。内部はさまざまなものが散乱したままだ

 私どもの地区は、もともと海沿いに家が立ち並んでいました。そこに地震による5メートルの津波が発生、今では海沿いの家はほとんど残っていません。

 震災があった日はお正月で、多くの方が初詣にいらしていました。コロナ禍も明け、天気も良く、穏やかな元旦でした。そんななか、地震が起きたのは午後4時ごろ。まだ多くの家族連れの参拝の方が残っており、駐車場もいっぱいでした。

震災当日の参拝者の様子を話す猿女千鶴さん
震災当日の参拝者の様子を話す猿女千鶴さん

 そこに起きた地震。そして津波。駐車場に停めてあった車は、ほぼすべて水没しました。鳥居は崩れてしまいましたが、津波は境内を流れる小さな川でせき止められ、神域の中には入らずに済んだのです。とはいえ、津波によって道路が寸断されてしまったため、100人以上残っていた参拝の方たちは帰ることができず、高台にある神社の奥の倉庫で一晩を過ごしていただきました。

 古かった本殿とその横に併設していた神輿蔵(みこしぐら)が壊れ、現在も修理が必要な状態です。また、境内の授与所は半壊、お隣の御山にあった木花咲耶姫命(このはなさくわひめのみこと)様のお社は全壊したため、解体いたしました。本殿はねじれながらもかろうじて立っているのを倒壊しないよう支えてある危ない状況です。

 比較的新しかった拝殿は被害が少なかったものの、維持していくためにはゆがみを直さなくてはなりません。宝物庫も柱が一部崩れ、中にあった重要文化財は転がったままの状態ですから、修理したとしてもこれからどう展示していくかを考えなければなりません。

 また、山の上の奥宮は全壊したため解体。ご神体は、ご支援でいただいた小さな祠(ほこら)にお納めしています。奥宮は、今から50年ほど前、住民の皆さんが細い獣道を柱やかわらを担いで登って建てたお社です。それだけに、失われたことはとても残念に思っています。

物資と人をつなぐ。支援の「入り口」として機能した須須神社

須須神社に届いたさまざまな支援品(画像提供:猿女千鶴さん)

 震災のときに強く感じたのは、私どもの神社が、外の人と地域のみなさんとのつながりのなかで、重要な通り道になっていたということです。

 被災地を助けたい、支援をしたいと思ってくださる方はたくさんいらっしゃるのですが、どこに行けばいいのか、何をしたらいいのかがわからない、という状況でした。もちろん、ボランティアセンターに来られる方もいますし、赤十字などに寄付をされる方もたくさんいらっしゃったと思います。何かしらの形で動いてくださる方はいらしても、被災地域に直接支援を届けるための、一つの入り口のようなものが必要だったのだと思います。

4つの避難所で必要なものを聞いて回る。支援者に伝える。届いた物資を届ける。その循環がたくさんの人を救った(画像提供:猿女千鶴さん)
4つの避難所で必要なものを聞いて回る。支援者に伝える。届いた物資を届ける。その循環がたくさんの人を救った(画像提供:猿女千鶴さん)
助けたい人と被災者を繋ぐ入り口が須須神社だった(画像提供:猿女千鶴さん)
助けたい人と被災者を繋ぐ入り口が須須神社だった(画像提供:猿女千鶴さん)

 能登から遠く離れた場所にいらした方も、須須神社のInstagramから連絡をくださって、野菜や必要な物資をたくさん届けてくださいました。何が必要なのかと聞かれることも多く、神社の役員さんが区長をされている4つの地区の避難所を周り、何が足りていないのかを聞いてお伝えする。それを伝えると、本当に大量の物資を送ってくださったり、実際に持ってきてくださったり。そうして届いたものを、直接、皆さんのところにお届けする。その活動が、かなり長い期間、続きました。助けたいという方がまず私たちの神社に来てくださり、私どもは地域の皆さんのところへ支援をお届けする。そういう流れが、自然とできていきました。

「祭りがしたい」。家をなくした人々の願いで実現したキリコ祭り

2024年、2025年と「寺家(じけ)キリコ祭り」を催行。人々が神様に祈る姿が見られるようになったという(画像提供:猿女千鶴さん)
2024年、2025年と「寺家(じけ)キリコ祭り」を催行。人々が神様に祈る姿が見られるようになったという(画像提供:猿女千鶴さん)
2024年、2025年と「寺家(じけ)キリコ祭り」を催行。人々が神様に祈る姿が見られるようになったという(画像提供:猿女千鶴さん)

 震災後、特に「祭り」というものの重要さを感じています。私どもは、秋に「寺家キリコ祭り」を斎行していますが、震災前から能登は過疎化が進んでいて、大きなキリコを動かすのに大変苦労していました。

 この数年は、地域の若衆たちはお酒を飲んで楽しむような余裕もなくて、本当に大変そうだなと思いながら継続してきましたが「この祭りが好きだから地元に残る」と言ってくれる若者がいて、なんとか続けてまいりました。

 震災後に、家をなくされた皆さんが「祭りがしたい」と、おっしゃったんです。神様をお招きするべき家もなくなって、余裕もなく、明るく楽しむような気分でもないはずなのに、それでも「やろう」と強く言ってくださって祭りが実現いたしました。みんなでキリコを囲んで喜びあい、これまで以上に「祭りの大切さ」を改めて実感しました。。

 昔から「寺家キリコ祭り」は、30代、40代くらいの人が頭、組長になって進めてきました。昔はたくさん人がいましたから、順々に若い人に譲っていく文化があり、40代、50代になると今度は教える立場になっていくものですが、人が減ってしまった今は、それがかなうはずもなく、「危ない」と言いながら少ない人数で担いでいるようです。

「寺家キリコ祭り」のキリコは本当に大きく、今は立てたまま収納していますが、本来は組み立て式で、年配者が若者に何年もかけて教えながら組み上げていました。上から下までの年代がいないとできない、みんなが一体にならないと動かせない、そういう祭りでした。このまちの団結力は、やっぱりキリコ祭りがあったからこそだと思っております。

 2024年と2025年は、震災後も賛否はありながらも、地元の人にしてみれば当然のように欠かさず祭りだけは続けてきましたが、皆さんが心から神様に祈る姿が見られるようになったことを実感しています。2023年も2024年も2025年も、きっと2026年も、何が起きても当然のようにやるのが能登の祭りなのかもしれませんね。

2000年以上続いてきた須須神社の歴史・文化を後世に伝え残すために

絵馬には、珠洲を訪れた人たちの願いが書き込まれていた
絵馬には、珠洲を訪れた人たちの願いが書き込まれていた

 能登の外にいる方に、何を伝えたいか、何をしてほしいかというと、「また能登に来てほしい」ということです。しかしそれは、「震災について知ってほしい」という意味合いではありません。

 須須神社には、日本の歴史ともいえる二千年も続いてきた歴史、消え去ってほしくない文化があります。ほかの国にはない日本らしさ、例えば、出雲大社との関係や神様の歴史、そして地域の人たちが残してきた祭り……。これらを消し去ることなく、多くの方にぜひ知っていただきたいのです。

 そして、これらの歴史や文化を継承していくために、必要な術や知恵を皆さんから拝借したいというのが私の希望です。

 だからといって、ここに拝殿を残すとか、形あるものを守るとか、そういうことではありません。

 そもそも神社というものは、立派な建物があるから残ってきたわけでも、古い歴史があるから続いてきたわけでもありません。手を合わせたい、祈りたいと思う方々がいたから残ってきたのだと思っています。

 私どもの神社も、地域のみなさんが労力やお金をかけて、拝殿を建て、壊れたら直し、祈り続けてきた。「ここで祈り続けたい」というみなさんの気持ちがあったからこそ続いてきたと思うのです。しかし今、過疎化が進み集落そのものが衰退して、ここで祈りたいという人も少なくなっています。それなら神社も必要なくなるのではないかとも思えるのです。

 このままいけば、お社もなくなってしまうかもしれません。しかしそれでは切ないし、どうにかしたい。20年後、30年後を考えたとき、地域だけで守っていけなくなるでしょう。だからこそ今のうちにお知恵をいただける方や力になってくださる方、支援していただける方を、全国から募りたい。そんなふうに思っています。今、私どもは本当に岐路に立っているのです。

 一方で、震災は、皆さんに注目していただける機会でもありました。外の方に能登や須須神社の現状を知ってもらう、考えてもらうきっかけをいただいたという側面もあるとは思うのですが、具体的に何もできずにおります。

人が訪れる神社へ。須須神社が描くこれからの能登

震災前はこの場所にあった立派な鳥居越しに海を眺められた
震災前はこの場所にあった立派な鳥居越しに海を眺められた

 鳥居があって、その向こうの日本海から朝日が昇る。そういう風景に人は心を動かし、ここに神様が宿ると感じ祈る。鳥居がなくなってみて、改めて感じています。鳥居がなくなれば、いつかみなさんは忘れてしまうのです。鳥居なんてなくてもいいじゃないかとおっしゃる方もいらっしゃいますが、あるのとないのでは、全然違うと思うのです。

 ずいぶん前のことになりますが、たくさんの人が能登をめざしてくる能登ブームといわれた時期がありました。揚浜塩田や輪島の朝市、そしてこの須須神社も、観光名所のひとつとして、全国から人を迎えておりました。もちろん地域の神社であることは間違いありませんが、もう一度、人が来ていただけるような場所に戻りたい、「一度は能登半島の先端にある須須神社にお詣りしたい」と思っていただける場所に変えていきたいと思っております。

 平安時代、京都から見て鬼門の方角の一番先端、そこに鎮座する須須神社に船でお参りすることは貴族のステータスであったという話が残っております。もう一度、そんな神社にできたらというのが私の大きな夢でもあります。須須神社がたくさんの人々がめざす場所になり、地域の活性化に寄与できれば、それは能登の復興にも必ずつながると信じています。

 珠洲という場所は、「何もない」ことが魅力のひとつだと思っています。何もないようで、実は都会にないものがすべてある。だからこそ、街にはない田舎の魅力を発信できる土地になって、すてきな宿泊施設を作って、東京や大阪などの都市部に住んでいる方々が癒やされにいらっしゃる。その中心に私ども須須神社があれたらと願っております。

取材後記

 取材を終えて強く感じたのは、神社は人々の祈りを受け止める場所であるということ。震災のとき、須須神社は、支援したい人の祈り、そして支援を必要とする地域の人の祈りをつなぎました。また「祭りがしたい」という地域の人々の祈りに応えてキリコ祭りも催行しました。家を失い、生活もままならない状況のなかで、それでも神様を迎え、みんなで集まりたいと願う。彼らが再び前を向くために必要な祈りだったのかもしれません。

 猿女千鶴さんの言葉一つひとつに、「人々が祈るこの場所を途絶えさせてはいけない」という強い願いを感じました。2000年もの長い年月において須須神社が守ってきたものは、建物や行事だけではなく、人が人として生きるための祈りの場所、拠りどころだったのだと、改めて感じています。

 その祈りの場が、いま大きな岐路に立たされています。猿女さんの祈りは、須須神社だけではなく、生まれ育った能登にも広く及んでいます。そのために必要なことは何か、一緒に考えてくれる人がほしい。目の前の課題を地道にこなしながら、いつかまた、この場所に、再び人が集い、祈る未来が、猿女さんの視線の先にありました。

 須須神社、そして能登の未来のためにできることを、この記事を読んでくださっているみなさんと一緒に考えていけたらとてもうれしいです。

事業者プロフィール

須須神社

所在地:石川県珠洲市三崎町寺家4-2

記者プロフィール

米谷美恵

米谷美恵(インタビューライター)

インタビューライターとして20年以上にわたり、メディアや企業、自治体など、さまざまなジャンル、媒体で2,000人以上の方々にお話を聞いてきました。好物は「人の話」。人、場所、物、想い。そのすべてに寄り添ったコンテンツ作成を心がけています。話し手の言葉に耳を傾け、ことばを整え、読んだ人の心に届くように形にしていく──。「対話から生まれる想い」を大切にしています。