能登各地の避難所が修羅場に陥った令和6年能登半島地震。そんななかで地震前からの取り組みが生かされ、いち早く「復興」の看板を掲げられたのが能登町の“三波(さんなみ)公民館”でした。その秘訣は何だったのでしょうか。公民館職員である森 美生子(もり・みきこ)さんと町民の船下智香子(ふなした・ちかこ)さんに聞きました。
[取材・構成 関口威人]
3つの「波」が集まる地区の公民館
三波(さんなみ)というのは3つの「波」の地区が集まってできた名前です。「波並(はなみ)」「矢波(やなみ)」「藤波(ふじなみ)」。あと地区的には山の手の「猪平(いのひら)」も入って、4つが合わさって三波地区と言われています。世帯数は少し前まで300以上ありましたが、今はだいぶ減って260世帯ぐらいです。
私、森 美生子はもともとここの隣町になる鵜川(うかわ)の出身。仕事で三波地区に通うようになって14年ほどになります。私が公民館職員として着任する前、この地区は公民館自体が活動しておらず、「休眠状態の公民館」だと聞いていました。
ところが、私の半年前に徳田博史館長(2022年までの前館長)が着任されて、私が配属されたときに「ちょっとイベントをやりたいんだけど」と相談に来られた方がいました。それが船下智佳子さんでした。「波並で花見」というイベントをしたいと。

「波並で花見」をきっかけに活気づく
当時は東日本大震災が起こり、船下さんたちが何かできないかとチャリティーイベントを兼ねた花見を地域で開きました。それに徳田館長が賛同し、翌年の2012年から正式に公民館主催で「波並で花見」が始まりました。
桜は、のと鉄道の旧「波並」駅周辺に少しあるだけでしたが、桜の苗木を寄付してくれるところを紹介され、100本ほどをいただいてみんなで植えるなどして。その後も冬は「あったか食堂」という形でイベントを開き、施設にクリスマスプレゼントを届ける活動もしました。
やがて、子どもたちに自分の住んでいる地区を好きになってもらう「さんなみっ子育成プロジェクト」という取り組みも始まり、年間を通して子どもたちの行事をするように。そんな感じでだんだんと地区が活気づいていきました。
いざイベントの準備になると20人近くの方がパッと来て協力してくれます。「おばちゃんたち来てよ」って言えば「わかったわい、行くわい」って。そんな日々の信頼関係で公民館活動が成り立っていました。

避難所となっても自然に役割分担
令和6年の元日、私は鵜川の自宅にいて、ものすごい揺れを経験しました。家は無事だったので、すぐにもこちらの公民館に来たかったのですが、津波警報が出て動けませんでした。公民館は目の前が海なので、地元の人からは「引き波で海の底が見えるくらいだった」と聞きました。
翌日、津波警報が解除されたので、急いで公民館に行きました。最初に避難してきたのは地元の方だけで40人ほど。避難訓練は地区の防災組織で年1回はやっていましたが、訓練とはぜんぜん違いました。いざ災害になると、消防や役場の人たちはそれぞれの職場や現場に行ってしまいます。地区の人頼みになって不安でしたが、それでも普段からここに来ている人たちはどこに何があるかがある程度わかっていたので、自然と役割分担などができました。
一番困ったのはトイレ関係です。当時は簡易トイレなどの備蓄が一切ありませんでした。そこで、男性の方たちが漬物の桶などを持って川の水をくみに行き、ためた水をバケツですくってトイレを流すようにしました。浄化槽は大丈夫だったので流すことはできましたが、断水は3週間以上、続きました。
寝るときは和室に女性が入り、男性はホールに小学校から畳を何十枚か運び込んで敷き、その上で寝てもらいました。備蓄の毛布もなかったので、最初は皆さんがそれぞれ家から持ってきたものをはおって寝るような状態。そのうち順番に毛布や布団の支援が回ってきました。食事も最初は皆さんで持ち寄って自炊する感じ。私はいただいたものを少しずつ利用して食事をつくり、皆さんに食べてもらいました。
夜は、鵜川へ帰らせてもらい、そのかわり朝は早くから出てきました。ときに避難所に泊まる日もありましたが、夜の見守りは地区の方と役場職員が交代で当たってくれました。繰り返しになりますが、日々の信頼関係があったおかげで自然と分担ができていました。また、避難所の運営に当たっては、茨城県の方が2人ずつ、2日交代で来られていろいろとお手伝いしていただきました。その後、避難所としては2024年3月上旬に閉めることになりました。

地元のお店の応援を「マルシェ」で
その後の「復興マルシェ」などにつながる経緯を私、船下智香子がお話しします。私は矢波地区でオーストラリア人の夫と「能登イタリアンと発酵食の宿 ふらっと」を約30年、経営してきました。その傍ら「波並で花見」と「あったか食堂」を始めたこともあり、私たちが何かイベントをやること自体はコミュニティに認知されていました。
そこで震災の年、3月にはもう森さんのところに行って「これからどうする」みたいな相談をしました。そもそも経済活動が止まっていて、私も民宿を開けず、能登町内でもお店を開けられないところがほとんど。何かできることがあるのではと思ったけれど、まだ大変な思いをしている皆さんがいるし、被害にあった直後にお花見というのはちょっとあれだからというので、復興を目指した「復興マルシェ」という形でやってみようというのがスタートでした。
目的は3つありました。1つは、地元のお店の応援。もう1つはコミュニティの力の強化。そしてもう1つは「食を次世代へつなぐ」こと。それらを目指して、これまでイベントに出店してくださった方たちを中心に声を掛けたところ、10近くの出店者が集まることになり、2024年4月14日に第一回三波復興マルシェ「ファーマーズ&フードマーケット」の開催にこぎつけられました。
当日はちょうど桜が満開で、これ以上ないくらいいい天気に。駐車場もいっぱいで車を停められないほど、大勢の人が来てくれました。そのなかに、なんと歌手の石川さゆりさんもいらっしゃいました!
さゆりさんが震災で「誰かにエールを送りたい」といったテレビ局の企画で、うちにと言ってくださったとき、「どうせやったらこのマルシェのときに来てくれたら、みんなが喜ぶ」と伝えたら、本当にサプライズで来てくれたんです。みんな「キャーッ!」「本物だ!」って。
取材が終わったら帰られると思ったら、3時間も4時間もいてくれて、皆さんとお話ししたり、励ましてくださったりして、すごく盛り上がりました。さゆりさんにはその後も継続的に支援していただいています。

「究極の保存食」発酵食文化を次世代へ
復興マルシェも、それから継続してほぼ毎月やっています。冬の足場の悪いときは皆さんの安全も考えてお休みしていますが、次はまた4月から再開予定です。楽しみにしてくださる方がいるし、やっぱりそのときに会って元気かどうかを確かめるみたいな人たちもいらっしゃるし。
「食をつなぐ」ということでは、地域に伝わる発酵食を取り入れた「御講(おこう)ランチ」というのもやっています。お寺の精進料理のようなランチを、輪島塗の御膳で食べてもらうという試みです。この御講ランチには俳優の斎藤 工(さいとう・たくみ)さんが応援に来てくれたことがあります! 斎藤さんにはランチを味わっていただきましたが、準備からお給士、片付けまですべてお手伝いしてくださり、おばちゃんたちも「私の息子や!」と言って喜んでいました。
能登の人は発酵食を保存食として、厳しい能登の冬を乗り越えるための知恵として引き継いできました。それが今後は本当の非常食になるというテーマで、森さんや公民館のおばちゃんたちに協力してもらいながら、私たちで書籍という形で記録する活動もしています。
マルシェのいいところって、小さい子からおばあちゃんまで、みんな来てくれること。「料理のレッスンをやりましょう」というと関心のある人しか来ないですが、マルシェだとみんなが気軽に来てくれる。いろんな世代を巻き込んで、マルシェだけじゃなく、いろんなところに派生して広がっていってくれたらいいですね。
2026年のマルシェはシーズン開催で4月12日、8月9日、11月8日、12月13日(いずれも日曜日)の予定です。詳しくはインスタ(
復興マルシェ@三波公民館)などでお知らせしますので、もしご都合があえばお越しください!

取材後記
インタビューの終盤、お昼どきが近づくと、森さんが「今日は利用者さんにおそばを振る舞うから」といって、私にもそばとおにぎりを持ってきてくれました。恐縮しながらいただくと、それがまたおいしいこと! どちらも自然な味わいと、もっちりした食感で、とても満足できました。森さんは音楽(吹奏楽)もされているそうで、館内では音楽教室やクラフト教室、麻雀大会など日々いろいろな活動が展開されています。
一方の船下さんも再開した民宿経営のほか、震災後の復興支援や地域活動にフル回転。その取り組みはまた別記事でまとめさせていただく予定ですので、お楽しみに。

