震災時に幼児保育施設を自主避難所として開放する。「いつまでもいていいですよ」と呼び掛けて──。穴水町の幼保連携型認定こども園“平和こども園”は、令和6年能登半島地震後にこんな型破りの対応で注目を集めました。その決断に至った背景や、地域の復興に向けた新たな取り組みについて、園長の日吉輝幸(ひよし・てるゆき)さんに聞きました。
[取材・構成 関口威人]
昭和初期に街なかの寺の保育所として出発
私たちの法人(社会福祉法人穴水福祉会)の歴史は古く、昭和14(1939)年に私の祖父がお寺の中で保育所を始めたのが出発点です。実は、穴水町には昔から街なかに公立の幼稚園(現在は閉園)はありましたが、保育所がありませんでした。あるのは郊外の方で、町の中心部の子育ては私たちのような民間園がずっと担ってきたのです。
だから、形こそ私立の施設ですが、実質的には地域の公的なインフラそのもの。「自分たちが穴水の子育てを支えている」という強い責任感と自負が、祖父の代から脈々と受け継がれてきたと言えます。かつてはベビーブームに合わせて町内に3つの園を展開していましたが、少子化に伴い閉園し、現在はここ1カ所で運営しています。
この園舎が建ったのは昭和49(1974)年。震災のときには築50年を迎えていましたが、それまでに耐震工事をしていたことと、当時の職人さんがよい材料を使って頑丈に建ててくれたおかげで、本体へのダメージは亀裂程度で済みました。増築部分は傾いてしまいましたが、園舎が持ちこたえてくれたことは幸いでした。

「人をつくり、社会をつくる」をミッションに
平成27(2014)年に幼保を一元化する認定こども園についての新制度ができ、私たちも保育所からこども園に移行しました。そのとき、ある研修で専門家から聞いた言葉に、雷に打たれたような衝撃を受けました。
「学校法人は『人をつくること』がミッションだが、社会福祉法人は『社会をつくること』がミッションである」
それまで保育を通して子どもの世話はしてきましたが、「社会をつくる」という視点はなかったからです。
かつて系列の園を閉園したとき、地域で反対運動は起こりませんでした。「子どもがいないから仕方ない」と冷ややかに受け止められたのです。私もしょうがないなと思いつつも、やはり先代が苦労してつくり上げてきたものを私の代でなくしてしまうのは忍びなく、残念でした。だから「仕方ないね」ではなく、「なくなったら困る」と地域の人たちに思われなければならない。そう強く感じ、「人をつくり、社会をつくる」を私たちのミッションとして掲げることにしました。
ときを同じくして「地域共生」という言葉が出始めました。それは福祉でいうと住民が行政任せにせず、我々のような専門機関も含めて協力し合って地域づくりをすること。法的にも社会福祉法人に「地域における公益的な取組」を行うことが義務付けられました。そこで我々も、穴水町内の一人暮らしのお年寄りに配食サービスを行いながら、園の行事にお年寄りを招いて子どもたちと交流してもらう会を始めました。
また、平時から災害に備えて水や毛布、簡易トイレなどの備蓄品を多めに備えていたことも、地域の人を受け入れる素地になっていたと言えます。

「避難所準備しました!」と病院で呼び込み
あの元日の地震では、私も自宅のある輪島市門前町で被災しました。副園長である妻ともども無事でしたが、家財道具は散乱し、家のあちこちは損壊。停電と断水と余震が続くなか、寒さに震えながら自宅の納屋で一夜を過ごしました。
翌朝、ズタズタの道路を通って穴水町にたどり着くと、園に大きなダメージはありませんでしたが、知り合いが福祉職でもないのに避難所でパンを配っていたと知りました。福祉に携わり、「地域共生」などと言っていた自分は何をやっているんだ? という強烈な葛藤が始まり、最後は義憤に駆られるような感覚で園を自主避難所として開放しようと決めました。
向かいにある公立穴水総合病院が避難者であふれかえっていると聞くと、園舎内を片付けたあとに駆け付けて「平和こども園です! 避難所準備しました! 来てください!」と呼び込みました。地声は大きいのが取り柄ですから(笑)。結果的に1歳児から88歳のお年寄りまで、最大で33名、延べ59名を受け入れました。卒園児の家族はいましたが、当時通っていた園児の家族はおらず、まったく面識のない方々が3分の1以上でした。

「悲惨な避難所にしない」ルール遵守を徹底
そうした方たちの受け入れにあたり、私はこう宣言しました。「ここは指定避難所ではありません。私の一存で開けました。だから、ここで生活するには私の言うことを聞いてください。そのかわり、ここへ来たことを後悔させないように頑張ります」と。自分なら絶対に悲惨な避難所にしないという、確固たる自信から出た言葉です。
特に徹底したのは衛生管理でした。備蓄していた簡易トイレは500回分ありましたが、大人数が使えばあっという間になくなります。そこで男性の小用は当初は屋外で、大便は必ず一人1回ごとに処理・片付けをするなどのルールを設けて徹底してもらいました。おかげでトイレは一度も汚れず、ノロウイルスなどの感染症も一切出ませんでした。
食事は調理師免許を持ち、「園の衛生管理の聖域である厨房に、外部の方には入ってほしくない」という妻が1人で担ってくれました。炊きたてのご飯と手づくりの味噌汁、支援物資にひと手間かけた料理を毎日提供し、大変に喜ばれました。
「いつまでいられるんですか?」と不安がる人には、こう答えました。「いつまででもいていいよ。保育が再開したら、ヒマなら子守りしててよ(笑)」と。
地震直後に大学受験を控えていた卒園児には2階の保育室を勉強部屋として使ってもらい、彼は見事、金沢大学に合格しました。大変な状況でしたが、つらかった記憶よりは、むしろ楽しかったという思い出が残っています。
こうした避難所運営で重要だったポイントは「衛生管理の徹底」「適切な食事の提供」「情報共有」「ソーシャルワーク」で、これは保育の営みそのものであると、のちに気付きました。また、子どもにとっての生活の場である保育所や認定こども園が、避難所として快適でないはずがないとも確信しました。
ちなみに園の職員は避難所運営に一切関与させず、保育(被災児支援)に専念してもらいました。

本当の復興は心豊かに暮らせる社会づくり
私は1年ぐらい続ける覚悟がありましたが、仮設住宅ができるなどして徐々に人はいなくなり、その年の4月1日には完全に避難所運営を終え、平常の保育に戻りました。7月の七夕や8月の夏祭りには近隣の仮設住宅の方々も呼んで、一緒に行事を楽しみました。2025年に入ってからは他の法人と連携して送迎車を出せるようになり、招待する方々の対象エリアが広がっています。
よく「能登は復興しましたか?」と聞かれますが、「復旧」と「復興」は違います。壊れたり傷んだりしたものを元の正常な状態に戻すのが復旧。商店街の瓦礫を片付けただけでは復旧になりません。そこにまたお店ができて初めて復旧し、さらに以前よりもよい状態を目指すことが復興だと考えています。社会福祉法人としては、地域住民が心豊かで幸せに暮らせる社会づくりを目指さなければなりません。
そこで今、取り組んでいる新しい試みの一つが、地震で壊れた自然を人間の手で壊さないようにと「海洋プラスチック」を通して環境を考える活動です。海岸に漂着したプラスチックごみを子どもたちと拾い集め、それを洗って紙粘土に埋め込んで花瓶などの作品をつくる活動を、1年を通して展開しています。昨年は私の自宅がある門前の公立保育所と交流しながら、黒島海岸の海洋プラスチックを回収したり、万華鏡をつくったりしました。
もう一つは、我々がこれまで付き合いのあったプロの人形劇団を10団体ほど招き、のと鉄道穴水駅前の施設や駅舎を使って人形劇イベントを開催する計画を進めています。これは国の「過疎地域における保育機能確保・強化のためのモデル事業」に採択されて、単なる余興ではなく、人形劇という芸術文化をこの地に根付かせることも狙いにしています。

関わりシロ・保育を通じて地域社会づくりに参加を
子どもたちは震災後、最初は恐怖や不安を持ちます。怖くて遊べなかったり、親から離れられなかったり。でも、時間が経てば日常を取り戻し、遊べるようになります。
「子どもたちがかわいそうだから、楽しくさせなきゃ」という時期はもうとっくに過ぎていますし、そればかりじゃダメなんです。興奮したり、発散したりする半面、集中できる環境もつくってあげないといけません。「集中と発散」を繰り返すことが日常生活ですから。
むしろ心配なのは親の方です。家が全壊し、再建のために二重ローンを抱える不安。仕事がなくなった不安。先の見えない生活の不安。これらを抱えている親はまだいて、そのしわ寄せが子どもに来ることがあります。子どものケアはもちろん大切で、子どもが心配だという気持ちはすごくありがたいですが、もっと子育て家庭の親に対する金銭面や精神面の支援を考えてほしいと思います。それをきちんとしてあげれば、おのずと親が子どもに対して目を向けられるゆとりも出てきます。絶対にそちらの方が重要なんです。
こうした考えを理解して、当園で働きたい、いっしょに地域のために頑張ってみたいという方がいれば、ぜひ連絡をいただきたいと思います。全国的な保育者不足のなかで、いくら処遇改善が進んでも、最後は子どもといっしょにいろいろな経験をしながら毎日を過ごしたいという内発的な動機付けがなければ続きません。震災後にさまざまな思いで県外から能登に移住された方々のように、能登と子どもへの愛をお持ちの方を、お待ちしています。

取材後記
後半の「集中と発散」について語るなかで、「うちの園にはキャラクターものがないんです」と日吉園長が明かしました。
確かに、子どもの施設なら必ずありそうなピカチュウやアンパンマンの姿が、この園では保育室にも廊下にも見当たりません。そういえば、子どもたちの着る服にも。
「園内ではキャラクターを忘れましょうというのがうちの方針。保護者にも極力、キャラクターの服は着せないようお願いしています」と日吉園長。
だから、ポケモンの着ぐるみで来たいという支援の申し出を断ったこともあったとか。この園で「取り戻すべき日常」を優先した結果だったそうです。
かわりに保育室には海外製のシンプルなデザインのブロックやゲームがあったり、「機織り機(はたおりき)」があったりします。こうした環境で感性を育まれた子どもたちが、次の穴水の未来を描いていくのだとわかりました。

