石川県珠洲市の北西部、日本海に面する「外浦」と呼ばれるエリアに位置する大谷地区。2024年の能登半島地震と、その年の秋に発生した奥能登豪雨は、この地域の暮らしを大きく変えました。数千年に一度といわれる巨大地震の傷跡が癒える間もなく、豪雨被害も重なり、家屋の倒壊や土砂崩れ、長期にわたる断水と停電で、多くの住民が地域を離れるか否かの選択を迫られました。
そんな大谷地区で、自らも被災者でありながら、保険会社の社長として地域住民の生活再建に向き合い、さらに「NPO法人外浦の未来をつくる会」を立ち上げてコミュニティの再生に取り組んでいるのが“株式会社重政保険事務所”の代表取締役社長・重政辰也(しげまさ・たつや)さんです。度重なる災害で疲弊する地域の人々を支え、前を向いて進む重政さんが見据える外浦の未来とは──。
[取材・構成 坂下有紀]
珠洲で生きるという選択
僕も妻も珠洲市の出身で、いわゆる幼なじみです。僕が25歳のときに結婚し、妻の実家に婿入りして家業の重政保険事務所を継ぎました。保険の仕事を通して地域の方々と関わるなかで、この地域で生きていくという実感が少しずつ深まっていきました。

令和6年能登半島地震が発生した2024年の元日、私たち一家は珠洲市馬緤(まつなぎ)町にある家でお正月ののんびりした時間を過ごしていました。突然、大きな揺れが襲い、自宅・事務所の背後にある山が崩れ、あちこちで土砂崩れが発生しました。うちは何とか下敷きにならずに済みましたが、近隣では倒壊や土砂崩れに巻き込まれた家もありました。


家の外に出ると、目の前の海で波打ち際が遠くに引いていることに気づきました。「これは大きな津波が来る」と思い、すぐに子どもたちを高台に避難させ、近所の倒壊した家に取り残された人の救助作業をしました。結果的には海底が隆起したおかげで津波は陸に上がってこなかったようですが、本当に恐ろしい思いをしました。

元日は家の敷地で車中泊し、翌日に大谷小中学校(2016年に小学校と中学校が統合)の避難所へ向かいました。大谷小中学校の避難所には約400人が身を寄せていました。大谷地区は大規模な土砂崩れと海底隆起によって道路が分断され、水道、電気のライフラインも絶たれ、孤立状態になっていました。しかも、1月2日には携帯電話の基地局の電源が落ちて通信手段も途絶え、行政と連携が取れなくなりました。
避難所では組織を作って避難所運営をすることになりました。僕は掃除や衛生・食事関係、送られてくる物資の受け入れなどを担当し仲間と一緒に活動しました。自衛隊が到着すると一部の住民はヘリコプターで脱出し、迂回路が整備されると自力で地区外へ避難する人も出てきました。被害が大きかった大谷地区はインフラの復旧に時間がかかりました。大谷地区で電気が復旧したのは2024年3月、断水は6月まで続きました。そんな状況で避難所生活を続けるのは厳しく、住民の大多数が広域避難を決断しました。
僕は震災の2年ほど前から野々市と能登の2拠点生活をしていたので、妻と子どもと一緒に野々市の家へ戻りました。珠洲の家や事務所も無傷ではありませんでしたが、義両親は珠洲に残ることを選び、少しずつ修理しながら生活を再建していきました。
震災、そして豪雨──絶望のなかで
震災直後から、保険の仕事はすぐに始まっていました。重政保険事務所のお客さまのほとんどが能登の方です。停電や断水のなかでも、できる限り早く保険金をお届けすることが使命でした。

元日はまだ携帯電話が通じたので、金沢店の社員と連絡を取りました。道路が寸断されて自分はすぐに動ける状況ではないと伝え、社員の安否確認や今後の段取りを指示しました。当時の重政保険事務所には、珠洲に義両親・従業員の計6名、金沢に4名、七尾に2名、輪島に1名が在籍していました。社員とその家族の無事は確認できたものの、1月2日には携帯の電波が途絶えたため、しばらく連絡が取れなくなりましたが、金沢店があったことが不幸中の幸いでした。

お客さまの状況はそれぞれ異なり、地震・水害に対応する保険はオプションのため、付けていた方は数千万円の補償が受けられますが、そうでない方の補償はゼロ。保険の補償条件に適応していても、能登全域で交通が寸断されていたので、被災状況の確認や修復費用の見積を取るだけでも大変で、被災地ならではの事情でスムーズにいかないことも多々ありました。
また、能登在住の社員も被災しているため、住む家を失い離職した人もいますが、金沢店に移って働き続けてくれている人もいます。僕自身も珠洲の本社と金沢店を行き来しながら仕事をしています。
僕たちはコツコツと保険の仕事を進めていましたが、9月21日に奥能登豪雨が発生しました。豪雨は河川の氾濫を引き起こし、地震で崩れた山々はさらに被害が拡大し、大量の土砂が地域を襲いました。元日の地震でも大谷川の周辺は被害が大きく、多くの家が全壊・半壊の状態でした。その中で無事だった家も屋根の高さを超える土砂が流れ込み、家々を飲み込みました。


地震後、ようやく電気と水道が復旧し、10月には大谷小中学校横に建設していた仮設住宅の引き渡しも始まるというタイミングでした。再建に向けて、皆が希望を持って動き出そうとしていた矢先のことでした。積み上げたものが、なす術もなく奪われてしまいました。地震よりも豪雨の方がダメージもショックも大きく、絶望感を味わいました。
そんなときだからこそ、自分にはやるべきことがある。震災後、保険の仕事で多くの方と接し、明暗が分かれる状況に触れ、辛くなることもありました。しかし、私自身は仕事に集中することで、ある意味救われていました。忙しくて余計なことを考える余裕がなかったのです。考える時間があったら、もっと悲観して落ち込んでいたかもしれません。だから豪雨被害のときも、お客さまのために、地域のためにできることをしたいと動き出しました。
地元メンバーで立ち上げた「外浦の未来をつくる会」
震災から半年後の2024年6月、僕は大谷地区を中心に外浦エリアに残ることを決めた地元住民と一緒に「外浦の未来をつくる会」を立ち上げ、翌年2月にはNPO法人として認証されました。もともと青年団の活動があったので、その延長で30代、40代の同世代の仲間たちと外浦の未来をつくる会を立ち上げることができました。きっと1人ではできませんでした。仲間がいることは本当に心強く、この地域の希望だと感じています。

▶︎シロシル能登
住民と移住者が、能登の未来を共に考え活動する“外浦の未来をつくる会”
震災のあと、多くの人が能登を離れました。珠洲市では人口が半減、市外への広域避難をしていた時期は、1,000人いた大谷地区の人口は200人にまで減りました。少しずつ復旧が進み、仮設住宅ができたことで戻ってきた人もいますが、2026年の2月現在でも人口は震災前の半分以下です。住む場所、働く場所、子どもの教育の問題など、さまざまな理由が重なっています。戻りたくても戻れない人、逆に仕事の関係で離れられない人もいます。
20代、30代はもともと少なかった地域なので、数人いなくなっただけで若手の減少率は大きい。親にとって子どもの教育、未来は重要な問題です。子どもがいるファミリーの多くが地区外へ出ましたが、少しでも若い世代が残ったのは救いでした。
珠洲市でも学校をどうするか検討する委員会ができました。複数の小学校・中学校を統合し再編する案も出ていますが、大谷地区ではコミュニティの拠りどころとして大谷小中学校は残してほしい、という意見が多く上がっています。しかし子どもを持つ親の意見はまた違っていたり、そもそも残すためにどうすべきかを教育委員会、行政、地域が一緒になって考えなくてはいけません。
9月の豪雨被害では、外浦の未来をつくる会が6月に立ち上がっていたことが、地域住民のサポートに役立ちました。外浦の未来をつくる会を母体にして災害ボランティアを受け入れ、家屋から土砂をかき出したい住民と、外部から来てくれるボランティアの方々の窓口となり、コーディネートすることができました。
流れ込んだ土砂の被害も大変なものでしたが、水道設備が壊れ、再び断水してしまったことも生活に甚大な被害を与えました。断水は早い地域で2024年12月初頭、場所によっては2025年の2月頃まで続き、一部のお宅では2026年現在でも水が来ていないところがあります。

断水中は行政が避難所や公民館など、主要なポイントに水のタンクを設置してくれましたが、家庭ごとに給水所へ水を汲みに行く必要がありました。井戸がある家は井戸水が使えましたが、ほとんどの人が長期にわたって水に苦労しました。特に地元に残った方は高齢の方が多く、給水所へ水を汲みに行けない方もいました。
そこで、「一般社団法人能登乃國百年之計」の協力で、ボランティアの方が給水車やトラックに積んだ水を希望するお宅に届けてくれることになりました。外浦の未来をつくる会では、地域との間に入っておつなぎする役割を担いました。僕らはつなぐことしかできませんでしたが、泥かき作業と給水活動の両面でお世話になり感謝しています。
設立当初の6月、外浦の未来をつくる会の構成メンバーは地元住民でしたが、9月の豪雨後は若い移住者が増えてメンバーに加わっています。坂口彩夏(さかぐち・あやな)さんも移住者の一人で、今や外浦の未来をつくる会の中心メンバーとして、ボランティアのコーディネーターとして活躍してくれています。

外浦の未来をつくる会が掲げる活動理念は、先人が山や海で培ってきた暮らし方、そこで生まれた能登の独特の文化や伝統を大切にし、住民が胸を張って共に前へ進んでいけるよう、外浦地域の魅力をさらに引き出し未来へつなげること。住む人、訪れる人、関わる人が安心できる地域をつくり、自然と笑顔が生まれるコミュニティの実現を目指しています。
時間の経過と共に、状況も変わってきています。震災のときと、豪雨のときと、今では考えや思いが違っていることもあります。僕の場合は、幼馴染や親戚など身近で亡くなった人がいたので、悲しさや無念さは今でも感じています。しかし、一方で地震・豪雨災害をきっかけに出会いが生まれたり、課題が改善されたり、新しいことが芽生えたりもしました。
外浦の未来をつくる会の活動
- 災害ボランティア活動:豪雨被害の泥出しなどを行いました
- さいかいみんなの家:大谷町西海に建設予定の「みんなの家」の準備
- さいかい広場:商店・カフェ、コミュニティースペース
- まんまハウス/あえの風放課後クラブ:子どもの居場所づくり
- イベント:大谷鯉のぼりミニフェスティバル、竹あかりなど


今は目の前に課題が山積みになっていますが、地域のみんなが「どういう町にしたいのか」「どういうことをやりたいのか」を擦り合わせて、みんなで地域の未来に進んでいきたいと思っています。
関わりシロ──重政保険事務所と外浦の未来のために
震災以来、地域のこと、自社の事業のこと、さまざまなチャレンジを続けています。僕は重政保険事務所の社長のほか、NPO法人外浦の未来をつくる会の理事長、2025年度から珠洲青年会議所の理事長や珠洲商工会議所青年部の理事という職もお預かりさせていただいています。
続けるということは、本当に難しいことです。だからこそ、一緒にこの地域に関わる人が増えることが、未来につながるのだと思っています。会社としても、この地域で暮らす一住民としても、地域のため、未来のために、少しでもやれることをやっていきたいと考えています。
1)重政保険事務所のスタッフを募集
重政保険事務所の珠洲本社で勤務できるスタッフを募集しています。営業経験がなくても大丈夫です。当社は地域に根ざしてお付き合いしていくスタイルなので、俗にいう「保険営業」はしていません。

地域が地域として成り立つには、生活・会社・雇用のサスティナブルな循環が大切です。保険会社も、地域に人がいてこそ成り立ちます。重政保険事務所は震災前から、保険を販売するというよりも、地域を守り、育てる存在でありたい……うまく言葉にできませんが、地域と一緒に歩んでいくことを大切にしてきました。地域との関わりを大切にし、できる範囲でいいので地域活動にも参加してくださる方を歓迎します。
当社で働いていただくうえで、住居の問題がありますが、戸建て、シェアハウスなども視野に入れて住居探しのサポートもします。これから仮設住宅の転用などが進めば、住居問題も少し解消されていくのではと期待しています。地元を離れたけれど珠洲市に戻り仕事を探したい方、移住先として考えている方も、当社の仕事に興味があればお問い合わせください。
2)能登の今を知ってほしい
震災後、たくさんのご縁から講演のご依頼をいただき、月2回ほどのペースでお話をさせていただきました。9割が保険業界から、1割がまちづくりや観光の視点で話してほしいとの依頼です。
専門家ではないので、ありのままの体験しかお伝えできませんが、来場された方とお話しすると、情報源がメディア報道しかないため、能登について現状とは異なる極端な認識をされていることに驚きます。自分が全国各地へ直接行ってお話しすることが、能登の現状を知っていただくために大事なのだと思いました。
メディアを見ると、まだ復興が進んでいないと嘆いている一部の意見だけフォーカスしているように映るかもしれません。震災直後の大変な時期だけを経験して外に出た人が、上書きされないまま「何も直っていない」と言っていたり、「能登はまだ行けない」という認識を広め、風評被害につながっているケースもあります。
今も大変な思いをしている方はいますが、道路の復旧、建物の解体・再建も進み、新しい営みが生まれています。メディアに取り上げられなくても、能登で頑張っている人がたくさんいて、その人たちがとてもエネルギッシュで力強いことを知ってほしい。未来に向かって前進している人、大切にしている祭りを復興するためにいきいきと活動している姿を見てほしい。できれば現地を訪れて、今の能登を直接見て、触れていただけたらと思います。
取材後記
今回お話をうかがった重政辰也さんと初めてお会いしたのは、2024年9月の豪雨災害の翌週でした。ボランティア活動の合間に立ち寄った食堂で、偶然同じ空間に居合わせたのが最初です。その後、断水していた大谷地区の個人宅へ、トラックで毎日お水を届けるボランティア活動に参加したことで、改めてつながりました。
震災以降、「受援力」という言葉を能登の各地で実感しています。どこも支援を必要としていますが、受け入れる体制があるかどうかで、支援の入りやすさは大きく変わります。大谷地区には、重政さんや外浦の未来をつくる会という窓口がありました。支援したい人と、支援を必要とする人が出会える場があったこと。それが、私自身が大谷へ足を運ぶきっかけにもなりました。
珠洲市内でも豪雨被害の状況は地域によって異なります。大谷は土砂崩れや河川の氾濫による被害が特に大きかった地域の一つです。その凄まじさを目の当たりにしたのも、実際に現地を訪れたからこそでした。当時は関係者以外の立ち入りが控えられていましたが、現在は水道も復旧し、自由に往来できるようになっています。
大谷川に約450体の鯉のぼりを渡して揚げる「大谷鯉のぼりフェスティバル」は、40年以上続いてきたゴールデンウィークの風物詩です。2024年は震災で中止となりましたが、2025年は外浦の未来をつくる会が中心となり、従来の主催団体と協力しながらミニフェスティバルとして約200体が広場に掲げられました。鯉のぼりを揚げる日にもボランティアとして参加しましたが、空を泳ぐ鯉のぼりを見上げて笑う地元の人たちの姿が印象に残っています。移住者や関係人口が関わりながら、地域の人とともに行事を続けていく。その積み重ねが、外浦の未来を少しずつ形づくっていくのだと感じました。

