石川県輪島市鳳至町(ふげしまち)。能登半島の先端近く、海風が路地を抜けるこの町に、三代続く”坂口漆器店”はあります。三代目の坂口彰緒(さかぐち・あきお)さんは、漆を塗る「髹漆(きゅうしつ)」の職人であり、工程全体を束ねる「塗師屋(ぬしや)」として産地を支える存在です。
2024年元日、坂口さんは車のドアに手をかけた瞬間、「死ぬ」か「生きる」かの選択を迫られます。手を離した数秒後、愛車が家屋の下敷きになる光景を目の当たりにしました。
あの日から2年。世間の時計は動き続けていますが、坂口さんと工房の時間は、まだ止まったままです。
[取材・写真・構成 伊藤璃帆子]
継ぐつもりはなかった──魚屋から漆の世界へ

“坂口漆器店”の坂口彰緒(さかぐち・あきお)です。
正直に言うと、最初から漆をやろうなんて、これっぽっちも思っていませんでした。
金沢の魚屋で配達をしていたんです。理由は単純、給料がよかったから。若いころは遊ぶことしか頭になくて、夜遊びで朝帰り、また夜遊びという生活を続けていたら、体調を崩して事故を起こした。病院通いになって、仕事もできなくなって、しかたなく輪島に戻ってきたんです。

その時、友人や親戚に言われました。「職人の技術は若いうちにしか身につかない。とりあえず身につけてから、別の好きな仕事に就けばいいんじゃない?」って。そう言われたら、まあそうかなと。それで家の仕事を手伝いながら輪島塗の制作工程の一つである「下地」の学校に2年通ったのが、始まりでした。


ところが、やり始めたらだんだん欲が出てきた。石川県立輪島漆芸技術研修所に入って「髹漆」を専門に学ぶうちに、気がついたらどっぷりハマっていたんです。自分が作りたいものを作って、それが売れていく。その面白さを一度知ったら、もう抜けられなかった。

研修所でいちばん役に立ったのは、失敗したときのリカバリーを徹底的に叩き込まれたことです。漆の工程は複雑で、どこかが狂えば全体に響く。その時にどう立て直すか。その引き出しの数が、今の自分を支えています。
「死ぬか、生きるか」──時間は、あの日から止まったまま

2024年1月1日。元日は母方の祖父の命日でもあるので、毎年通り、お袋の生家へ新年の挨拶に行っていました。仏壇にお参りを済ませて、リビングに戻ろうとしたその瞬間、最初の揺れが来た。
ただごとではないと感じて、揺れが収まるやすぐに安否確認に動きました。4軒隣の嫁の実家へ走って、義父母に声をかけた。次は自宅にひとりでいた長女に電話を入れて、無事を確認し合った。その直後でした。それまでとは次元の違う本震。地面に足をつけていられないほどの揺れでした。

お袋の家に走って戻ると、車庫が建物ごとグラグラと揺れていた。咄嗟に「車を出さなければ」と思って、ドアに手をかけた瞬間でした。頭の中に「死ぬ」と「生きる」、たった2つの言葉が浮かんだ。私は「生きる!」と叫んで、一歩下がった。
その数秒後、車庫が崩れ落ちて、愛車が2階の床に完全に押し潰されていきました。呆然としながら、ただその光景を見ていました。


あの瞬間から、私の工房の時間は止まっています。2026年2月現在も、仕事場にしている実家の柱は歪んだまま、扉はまともに閉まらない。水道を通せば漏水する。直したくても、大工さん自身が被災していて、順番が一向に回ってこない。自宅も下水管が粉々になり、屋根が崩落した。行政の補助は出なかったから、自分たちで直しながらなんとか暮らしている。雨樋もまだそのまま。町のあちこちに住民が自費で解体しなければならない場所も残っている。
震災から今日まで、できることをひたすらやってきた。でも、家の中には、あの日そのままの光景が残っているんです。
漆芸=人──塗師屋として動く理由

実は、大きな震災はこれが初めてじゃないんです。2007年の能登半島地震も経験しています。あのときは、震災の片付けや整理を済ませてから販売をしようとして、数ヶ月経ってようやく商品を売り出したんですが、そのころには、もう世間では「地震は終わった話」になっていた。その痛さが身にしみているので、今回はめちゃくちゃになった家や工房は後回しにして、販売に注力することにしました。

今、輪島で稼働している工房は、仮設工房を入れると4割程度だと思います。資材も足りない。器を入れる箱を作る「箱屋さん」も、もう一軒しか残っていない。私の実家の工房も、全壊した親戚の職人に貸し出して、自分が塗る仕事は再建が終わるまでお預けです。でも、刷毛だけはすぐ出せる場所に置いています。震災からずっと使っていないけれど、これが私の宝物なんです。

人がいなくなれば、技術や伝統が消える。だから、産業を守ろうとする前に、まず人を守らなければならない。職人に戻ってきてほしい。そのために、瓦礫をかき分けて売れるものを集めて、みんなのために売りました。何とかして、職人たちにお金を届けたい。その一心で、地震のあとから今まで止まることなく走ってきました。そして、風化と戦いながら、被災地の現状を伝え続けるのも、自分の仕事だと思っています。

工房が再建できたら、また自分の手で塗りたいという気持ちはあります。塗師屋の仕事上とても肝心な、漆を乾かす回転風呂もなんとか無事でした。回転風呂は、漆の生命力をコントロールし、製品の信頼性を担保する、私たちの心臓部のようなもの。これがあれば、また塗りを再開できる。でも今は、淡々とやれることをやるだけです。
外から見ているだけでは、わからないことがある。柱の歪みも、閉まらない扉も、来てみて初めてわかることがある。だから、一人でも多くの人に、今の輪島を見に来てほしい。
私たちの日常は、2024年の元日のままで、県外の多くの方が思っている以上に復興は進んでいないのです。
取材後記

世間の関心が薄れていく速さと、現地で時間が止まったままの落差。大工が来ない、雨樋が直らない、解体費が出ない。坂口さんの口から語られたのは、そういう地味で終わりの見えない現実でした。それは震災から2年が過ぎた2026年の今もなお、被災地の多くの人たちが抱える苦悩でもあります。
輪島の方たちは、現場をあまり悲劇として語りません。ただ事実として、言葉を選びながら静かに話してくれるのです。その語り口の奥に、拭えない疲れがあることを想像し、こちらも言葉に詰まることがあります。
「継ぐつもりはなかったんだけど」と言いつつ「宝物だ」と言って見せてくださった漆刷毛には、受け継がれた漆芸への想いが、静かに宿っていました。坂口さんがあの美しい刷毛を握る日常が、1日でも早く戻ることを願ってやみません。

