能登半島の最先端に近い珠洲市の木ノ浦海岸に面する宿泊体験施設“木ノ浦ビレッジ”。令和6年能登半島地震では自主避難所となって大勢の避難者を受け入れ、その後も復旧工事の関係者や復興ボランティアらの宿泊、交流拠点となっています。管理運営する「ザアグラリアンテーブル合同会社」代表の山口侑香(やまぐち・ゆか)さんに、これまでの経験とこれからの取り組みについて聞きました。
[取材・撮影・構成 関口威人]
思い出の場所に立つ新たな宿泊施設を管理運営
私、山口侑香(やまぐち・ゆか)は珠洲で生まれ、就職で金沢に出たあと結婚・出産を機に珠洲に戻り、2019年から“木ノ浦ビレッジ”で働いています。2021年には前代表から会社の経営を引き継ぎ、施設の管理運営を担っています。
この場所にはもともと「木ノ浦荘」という国民宿舎が立っていて、私は母方の実家がすぐ下にあり、小さいころから親に抱かれて連れて行ってもらいました。昔のボールゲームが置いてあって、それで遊ぶのが楽しみでした。
国民宿舎は老朽化でなくなってしまい、いったん更地になってから建てられたのが木ノ浦ビレッジです。
実は、現在の木ノ浦ビレッジの料理長も、すぐ下の地域の住人で、「上の方に大きな施設があって、灯りがついていないとさみしい」と言います。震災や豪雨で何度も停電を経験した私も、その言葉にはすごく考えさせられるものがあります。

地震で4日間は完全に孤立、宿泊客と地元の人で共同生活
2024年元日の地震では、道路や水道を含めたインフラが断絶して丸4日間、施設が孤立しました。
当時、宿泊していたお客さんや避難してきた地域の方々、そして私たちスタッフは総勢50人ほど。外への移動も連絡もできないまま、最初は薪を燃やしてかまどでご飯を炊いたり、隆起した海でサザエをとってツボ焼きにしたりしてしのぎました。
ありがたかったのは施設にカセットコンロやガスボンベがあり、各家庭からは使えそうな食材を持ち寄ってもらえたこと。二槽式の洗濯機もあり、洗濯は手作業で。今になってみると、生きる力が強い地域の人たちとある程度の物品がそろっていて、他の避難所より恵まれていたのでしょう。
5日目の午前中にやっと道が開き、出られる人から施設を出ました。その後も2次避難先の調整を進め、一人暮らしの方は指定避難所に入ってもらうなどの段取りを付けて、いったん全員が出られたのが約2週間後。もともと公的な避難所指定などのない施設だったこともありますし、私自身も家族や子どもの安否さえ分からない状態で留まっていたので、どこかで区切りを付けなければいけなかったのが実情でした。
スタッフが戻ってきた直後に豪雨、給水ボラに救われる
いったん仕切り直して、まずコテージ2棟だけで営業を再開したのは2024年3月末。拠点として使いたいという方々がいて、なるべく早くと間に合わせた感じです。電気は通っていて水も最低限使えましたが、敷地内で漏水していたところもあって節水をお願いする状態が続きました。
最初はほぼ私1人で、スタッフたちには時間をみて手伝いに来てもらう程度。道路状況がまだ悪く、リネンなどの回収や配達に来てくれていた業者さんも来られなかったため、自分たちでシーツを洗い、干して、アイロンかけまでしていました。
そしてようやく9月ごろ、本格的にスタッフに戻ってきてもらった後……奥能登豪雨でまたも停電、断水です。精神的には地震が来たときよりしんどいなと感じました。
当時は仮設住宅の工事などで泊まりに来ているお客さんもいらっしゃったので、スタッフが海岸近くの地下水の出るところまで毎日、水を汲みにいって各コテージに配ったり、生活用水に使ったりしました。
その後、トラックに水のタンクを積んだ給水ボランティアの人たちが来てくれるようになって、本当に神様だと思いました(笑) 一般の家でも、あの給水ボランティアがなかったら「私、死んどったわ」とか「もう珠洲におらんかったかもしれん」といまだに言われています。
それから1カ月間ぐらいは水を大切に使って、断水が解消されたのでカフェも再開しました。

一般向け宿泊プラン、アクティビティ体験も再開へ
2025年夏からは一般のお客さんの受け入れも再開しました。しかし、やはりまだ業者さんが多いので、なかなか空きが出ません。それでも、2026年1月からは新規のお客さんとリピーター専用の宿泊プランの受け付けを開始しています。コテージもせっかく「海」「空」「風」「星」などの名前が付いているので、それぞれのコンセプトに合わせて家具をリニューアルしました。
また、震災後はなかなかできていなかったアクティビティ体験も、能登復興 × 複業プロジェクトの支援を受けて再開を目指しています。炭焼き職人の大野長一郎さんが手掛ける能登柞(ノトハハソ)の炭を使った火鉢で、能登の伝統である「塩づくり」を手軽に体験できないかと試しており、間もなく募集を始める予定です。
▶シロシル能登
「炭に宿る300年の魂」地震で消えた火と窯を再び灯す 茶道用の炭焼き職人 “ノトハハソ”
プロボノとして参加された西村 淳さんからは「木ノ浦ビレッジで日本海の凛とした美しさに触れた時間は印象深く、言葉にする前にまず身体で『ここには価値がある』と納得する体験でした。外から来た人間だからこそできるのは、地域の当たり前を伝わる形に整えること、そして続く仕組みにしていくことだと感じます。短期の成果だけでなく『百年』という時間軸で未来を考える場に参加できたことは、自分にとっても大きな学びでした。これからも関わり続けていけたら嬉しいです」という言葉をいただいています。
冒頭の料理長の言葉の通り、ここに灯りがついていることで安心してくれる人がいるのは大きいなと感じます。その灯りを守っていく、灯りをともし続けることが地域にとってすごく大事だなと。
それは逆の立場でも言えることです。お客さんがいるときのこの宿は明るい。でも、窓の外を見ると、以前に比べて真っ暗。地域に住む人たちが震災前の半分以下に減ってしまったからです。これは地域全体でなんとかしなければならない問題ですが、私たちにできるのはスタッフを募集し、雇用を守ることです。
宿って、その土地にゆかりのある人もない人も、何か目的のある人もない人も、いろんな人が混じり合う空間。そこに地元の人が混じってくれると、もっといろんなことが起こります。
私自身、この震災がなければ出会わなかったであろう方とも出会いました。そうした方たちが戻ってきてくれる場所、地域の方たちが帰ってこられる場所として、今後も灯りをともしたいと思っています。

取材後記
私が木ノ浦ビレッジに宿泊させてもらったのは2024年12月、本文中にも出てくる給水ボランティアの取材をするためでした。数日前に申し込んだこともあり、空いていたのは本来、宿泊用ではない「研修棟」。畳の上に布団が敷いてあるだけの状態でしたが、震災取材では寝袋で寝るのが当たり前だったため、とても快適でした。ただ、外はものすごい強風が吹き荒れていて、壁が吹き飛ぶのではないかと思いながら一夜を過ごしたのを覚えています(もちろん何ともありませんでしたが)。
それからちょうど1年というタイミングとなった今回の取材。天気も穏やかで、施設内は本来の落ち着きを取り戻しているように感じました。課題はまだまだ多いはずですが、このまま穏やかな時が流れ、いつでも「戻って」こられる場所であってほしいと願って、帰路につきました。

