夏になると、近所のお母さんたちも加わって「収穫部隊」が一気に増える。能登の山で続いてきたブルーベリーづくりの始まりは村おこし。やがて地域の特産として根づき始めていた。
しかしその希望は、令和6年能登半島地震によって見事に崩れ去った。土砂崩れで畑の一部を失い、建物は半壊。大きな被害に見舞われながらも、冷凍庫に残ったブルーベリーを「全部買い取るよ」と言ってくれた取引先や製造を引き受けてくれた仲間、そして農園のブルーベリーを心待ちにする顧客に支えられながら、ひらみゆき農園代表・平 美由記(ひら・みゆき)さんは商品づくりの手を止めなかった。
規格外品を周りの農家から買い取り、ブルーベリーソースやカレー、バームクーヘン、ジェラートへ。夏の一時期だけで終わらないつながりをつくるための平さんの工夫が、少しずつ形になっている。めざすのは、復旧の先にある「能登に残ったから豊かに暮らせたね」と言い合える環境。復興とは決して言えない復旧の最中にいるという平さんに話を聞いた。
[取材・構成 米谷美恵]
農園を継いだのは、「待っとる人がいてくれたから」。
この辺りでブルーベリーが作られるようになったのは、今から40年ほど前のこと。村おこしとして田んぼの転作でブルーベリーが持ち込まれたのが始まりです。
ブルーベリーは、暑さにも寒さにも強いので、日本全国どこでも育つのですが、能登の夏冬、朝晩の寒暖差がブルーベリーをよりおいしくしています。雪が降る能登では雪囲いという作業が必要になるので、育てる人間にとっては大変ですけれど(笑)
最初の試練は父が平成22(2010)年に事故で亡くなったときです。山に通って手入れをする人がいなくなっちゃって。ほとんどの栗園の山は、手入れも大変だったので、「私ひとりじゃとても管理できんな」と、一番小さい範囲にあったブルーベリーだけをやってみることにしました。
そんなとき、ずっとブルーベリーを買ってくれていた方から「送ってもらえんかな」と電話をいただいたんです。ちょうど4番目の子どもが生まれて仕事をしていなかったこともあり、「待っとる人がおるんならやってみよう」と決心したんです。
でも、ろくに世話をしないで、収穫だけを続けていたから、ブルーベリーの実がだんだん小さくなってきたんです。農業では、剪定したり肥料をあげたりすることが必要という当たり前のことが当時の私にはできていなかったんですね。
人が通わんくなると、山が山に戻っていくスピードはめちゃ速くて、「私がここに通わんくなったら、一気に野生の山に戻るだろう」と、まずは通い続けようと決めました。そんななか一番苦労したのは草ですね。驚くほど速いスピードで増えていくんです。当時は機械もろくに使えませんでしたから。
同じ山に通う近所のおじちゃんに「またそんなことしとるんか」って怒られてばかりでしたが、山があって、田んぼがあって、家がある。それが当たり前の地区だから、私が父を継いで山に入ることに、家族も近所の人たちもまったく抵抗はなかったようです。
「ここはどこ?」地震後に見た山の風景
そして令和6年能登半島地震が起こりました。
父から継いだ山は土砂崩れにあって、畑の三分の一くらいが巻き込まれました。畑の両側が削れてしまって、3棟の小屋も壊れ、ぐるっと回れた道も落ちちゃいました。ブルーベリーの木100本分、重さにして4、500キロが取れなくなった感じです。
観光農園のブルーベリー畑にも亀裂が入りましたけれど、自分たちで土とチップで埋め戻しました。雨水は入って弱くなった部分もありましたが、山に比べれば被害は小さかったですね。
地震直後は道路が割れていて、山には車で行けなかったので、男性スタッフが歩いて畑まで行ってくれたんですよ。スマホで撮った写真を送ってくれたけれど、どこだかわからないくらい様子が変わっちゃっていました。
それから1週間くらいして、私も見に行ったんですけれど、「見晴らしが良くなっている」くらい向こうの山が見えるようになっていました。子どもころから家族で過ごした思い出があったからすごく寂しかったけれど、それでも残ってくれてよかったという思いの方が強かったですね。
今はようやく復旧作業が終わってこれからという感じです。
加工場も、地震当初は水も出ませんでした。今もボイラーが壊れたままなのでお湯は使えません。屋根の瓦も全部落ちてしまったので、家の中に雨が降っているような状態ですが、なんとか屋根だけは直してもらって、これから建物の改修、修繕工事が始まるという感じです。
「全部買い取るよ」から始まった支援の連鎖
震災直後、電気も点かないし水も出ない。でも冷凍庫にブルーベリーは残っている。
冬だったからしばらくは大丈夫だとは思っていたとき、取引先の金沢のドーナツ屋さんが「冷凍庫にブルーベリーが残っているなら、全部買い取るよ」と連絡をくれました。
でも、地震直後で物流は止まっていました。つてをたどって物資を運んできて空になった支援の車を探して、見ず知らずの人に金沢までブルーベリーを運んでもらったんです。
このドーナツ屋さんには、オンラインショップの運営代行と発送業務をすべてお願いしました。にもかかわらず、売上は全部寄付してくださいました。他にも金沢のゆず農園さんはうちと同じレシピでブルーベリーソースの製造を続けてくれました。本当にありがたかったですね。
他にも、しばらく連絡が取れていなかった友達から連絡があったり、新聞やテレビの取材記事を見て、見ず知らずの方が「何に困っているの?」「いくらあったら買えるの?」など連絡してくださったり、クラウドファンディングに協力してくださったり、直接、間接的に全国からたくさんの支援をしていただきました。
収穫の4割に及ぶ規格外品を商品化し、新たな収入源を確保


ブルーベリーは、出荷するときに選別が必要です。1粒ずつ収穫して、1粒ずつチェックする。いわゆる規格品、きれいな実は生のままお客さんに発送しています。
そこから外れたもの、傷があったり、ちょっと実が柔らかかったり、未熟だったりする実はいわゆる規格外品として扱われます。収穫したうち4割がそれにあたります。規格外の実は、収穫したらそのまま冷凍庫で眠らせて、使うことなく廃棄したり、ご近所に配ったりして終わってしまうんですね。
他の農家さんも、もしかしたら自分と同じような悩みがあるならと、私が買い取って加工することにしました。
ブルーベリー農家がお客さんと繋がっている時期は、夏の1、2カ月、収入もその時期に限られます。だから、できるだけ長くお客さんとつながれるようにと、最初に作ったのがブルーベリーソースです。
苦労してなんとか商品は作れたけれど、作るより売ることの難しさに気づいたものこのときです。
ブルーベリーソースから始まった商品も、今はカレーとケーキ、バームクーヘンやドーナツ、最近はジェラートも作るようになりました。
一人ひとりが「能登に残ったから豊かに暮らせるね」と言える環境を作りたい

私自身、進学、仕事としばらく金沢で暮らしていましたが、若いころから子育ては能登でしたいと思っていました。ここを流れる町野川は子どものころの遊び場でしたから、将来子どもが生まれたら、自然が豊かで人が温かいこの場所で同じように育てたかったんです。
そして、震災後、この町のコミュニティがとても豊かであることを再認識しました。避難所ではそれぞれが自分の役割を見つけ協力し合いました。家から発電機を持ってきて電気をつけてくれたり、家に残っている食べ物を持ってきてくれたり、それぞれができることを淡々とこなしていました。
正直なところ、まだ復旧の最中だと思っています。でもどうせなら、復旧するだけではなく復興に繋がるようにしていきたいと考えています。「元に戻った。OK!」ではなく、次のステップにつなげていきたいんです。
商品を作って、販路を広げようとしても原料が不足しているのも事実。現状の大きな課題です。これは能登全体の課題でもあると思うんです。小さな資源を、どう成長につなげていくか? もしかしたら震災がなければここまで考えることはなかったと思っています。
これらを整備して、何より、能登で働くことを選んで残ってくれたスタッフたちが、「能登に残ったから豊かに暮らせるね」と言えるような環境を整えていきたいと考えています。
取材後記
震災で畑や建物が壊れ、これまで当たり前だと思っていたすべてが崩れても、平さんは立ち止まらず、畑に通い、実を採り、周りと会話しながら、商品をつくり続けてきました。その原動力は、特別な使命感というより、「待っている人がいるならやってみようか」くらいの、ごく自然な感覚でしょうか。
「全部買い取るよ」という同業者の一言に象徴される支援も、平さんが長い時間をかけて育んできた周りの人々との関係性の延長線上にあるのでしょう。そして、小さな資源、小さなコミュニティだからこそ見える豊かさの先に、平さんが描く未来。「能登に残ってよかった」という大好きなふるさとの人々の笑顔そのものなのかもしれません。

