能登の朝は、魚市場の活気から始まります。午前6時半、能登町の宇出津港(うしつこう)に現れた一台のトラック。運転席から降りてきたのは、“中小路商店”(なかしょうじしょうてん)三代目の中小路武士(なかしょうじ・たけし)さん。祖父の代から70年続く鮮魚店を守る、若き三代目です。
「旨い刺身を造る鮮魚店がある」──そんな評判を聞いて訪ねた“中小路商店”は、2024年元日の能登半島地震で大きな被害を受けながらも、今では地域の飲食店を支える要となっています。震災が大きな転機となり、若き三代目は、地域のために走り続ける経営者へと変わったといいます。今回は、震災から現在までの日々と、能登の未来への想いを聞きました。
[取材・構成 伊藤璃帆子]
震災をきっかけにあふれだした「心の澱」

輪島にある“中小路商店”の三代目、中小路武士と申します。祖父の代から続くこの店で、私は魚と向き合ってきました。
震災前の私は、正直に申し上げると、満たされない日々を送っていました。父をはじめ、自分より年上の従業員が何人もいるなかで、下っ端の私には思うような裁量がありません。「もっとこうしたい」という想いを抱えながらも、それを実現できない歯痒さ。心のなかには、言葉にならない澱のようなものが溜まっていました。
2024年元日。能登半島を襲った大地震は、すべてを変えました。
自宅は幸い無事でしたが、店舗は壊滅的な被害を受けました。避難先から戻り、目の前に広がる光景に、私は立ち尽くすことしかできませんでした。
水槽は破損し、活魚はすべて息絶えていました。屋外に設置してあった冷凍庫は配線が引きちぎれ、機能を失っていました。真冬の寒さが唯一の救いで、腐敗の進行は緩やかでしたが、実際に店の片付けに取りかかったのは4月。すべてが手遅れの状態でした。


被災した飲食店などのお客様は休業を余儀なくされ、私たちも営業の目処が立ちません。5、6人いた従業員の方々には、苦渋の決断で離職をお願いしました。頭のなかには「廃業」の二文字がちらつき始めていました。
しかし、失ったのは仕事だけではありませんでした。
幼いころから家族ぐるみで付き合ってきた友人が、震災で命を落としました。ご主人の実家に帰省中の出来事でした。子どもを守ろうと必死にかばい、梁の下敷きになったと聞きました。
訃報が届いたのは、彼女が亡くなってから4日後のことです。その知らせを受けた瞬間、悲しみ、悔しさ、絶望感──そして震災前から心に溜め込んでいた、言葉にならぬ鬱憤まで、あらゆる感情が一気に溢れ出しました。
その日から、私の中で何かが変わりました。「自分にできることは何か」。その問いに、がむしゃらに答えを探す日々が始まったのです。

炊き出しに参加させていただくようになりました。最初の避難所で3ヶ月、その後別のチームに加わり2ヶ月半。同じように店を失った料理人たちと、夜な夜な将来を語り合いました。そのなかで、次第に「もう一度、店を復旧させたい」という想いが湧き上がってきたのです。
早朝、競り場に立つ喜び

現在、輪島の漁港では魚を仕入れることができません。
震災により漁業組合の体制が一変し、輪島で水揚げされた海産物のほとんどが金沢へ出荷されるようになりました。復興支援の一環として、漁師の方々から高値で買い取る動きがあり、今年は昨年以上の高値取引が続いています。

私は、毎朝1時間かけて輪島から能登町まで足を運んでいます。宇出津港の競り場も震災で被災しましたが、復旧に向けて仮設の競り場が設置されました。私が仕入れのためにここへ通い始めたのは2024年からですが、じつは幼いころ、父に連れられて何度も訪れた場所です。時間が経っていましたが、皆さん温かく迎えてくださいました。

「認めてもらいたい」──その一心で、競り人や仲買人の方々と積極的にコミュニケーションを取るようになりました。すると不思議なもので、競りという仕事が心から面白いと感じられるようになったのです。
震災前は、先輩方の存在が重く、思い通りに仕事ができない悔しさを抱えていました。ですが今は違います。この仕事は鮮魚店の役割のなかで「花形」だと、心の底から誇りに思っています。
一人で何でもこなすようになってから、競りも、魚をさばく作業も、すべてが楽しくて仕方ありません。良い魚を競り落とせた日は、お客様の喜ぶ顔が目に浮かび、自然と店へ帰る足取りが軽くなります。

震災前、当店は地元の居酒屋や旅館など輪島を中心に約40店舗に魚を卸し、遠方の飲食店へも配送していました。今は取引先が大幅に減りましたが、営業を再開してくださった飲食店のため、最高の魚を仕入れることに全力を注いでいます。
良い魚には仲買が殺到します。普段3,000円程度のものが、8,000円まで跳ね上がることも珍しくありません。それでも、たとえ利益が出なくても、お客様のために買います。これが、私のプライドです。


震災直後の炊き出し活動を通じて、支援業者や県外の方々との繋がりもできました。お歳暮の時期には、ブリやカニの配送を依頼されることも増えています。口コミで広がり、県外からのご注文は震災前を上回る状況です。

印象的だったのは、震災前から魚を送っていたお客様が、わざわざ東京から訪ねてきてくださったことです。「今年もブリを送ってください。お願いします。頑張ってください」と、深々と頭を下げられました。
多くの方々に支えられてきました。この恩は、一生かけても返しきれないと思っています。
能登の未来を、ここから創る

輪島の最大の魅力は、何といっても「食」です。
海の幸、山の幸に恵まれたこの土地の豊かさを、より多くの方に知っていただきたい。当店にいらっしゃるお客様は、地元で「本当に美味しい」と評判の飲食店ばかりです。私には、輪島の皆さんに最高の魚を届ける使命がありますし、皆さんにもうちのお客様の飲食店で料理を味わってほしい。
ですが、食以上に誇りに思っていることがあります。それは「人」です。



能登で生まれ育った人たちとの繋がり、その温かさと強さを、震災を経て改めて実感しました。これは、実際に来て、体験していただかなければ伝わりません。ぜひ、多くの方に輪島を訪れていただきたいのです。

現在、私は能登の若手事業者と共に立ち上げた「能登若衆の会」で若頭を務めています。能登を盛り上げるための活動に、積極的に取り組んでいます。
従来の年功序列や古い風習だけでは、能登は変われません。震災で多くの若者が地域を離れた今こそ、県外から来られた方々の熱い想いや、新しい視点が必要だと強く感じています。

「元の生活に戻りたい」という声もたくさんあります。その気持ちは理解できます。しかし、私は違う未来を描きたいのです。
なぜなら、元には戻らないと思うからです。
過去を懐かしむのではなく、「これからどうすれば、もっと良くなるのか」を考える。行政に声を届けられる仕組みを作り、若い世代が活躍できる場を生み出す。それこそが、今私たちが取り組むべき、能登の未来を創る仕事だと信じています。

この文章を読んでくださっている県外の皆様へ。
どうか、輪島に足を運んでください。外から来た方だからこそ、できることがたくさんあります。新しい風を、ぜひこの地に吹かせてください。
私は、能登の「食」と「未来」を繋いでいくために、今日もこの場所で元気に皆様をお待ちしています。
取材後記

取材中、中小路さんの店には次々と飲食店の店主が訪れました。輪島の食を影で支える存在、それが中小路商店だと実感しました。この店に魚が並ばなければ、地域の飲食店は成り立たないのです。
中小路さんに特別に用意していただいた刺身盛りには、その日水揚げされたばかりの魚介が並んでいました。ブリ、鯨、バイ貝、鯵、ウマヅラハギ、カサゴ、スズキ。昆布締めや繊細な包丁使いが光る一皿は、どれも絶品でした。
2日間に渡る取材中、いつも温かいコーヒーを淹れてくださった二代目のお父様にも、心より感謝申し上げます。

