珠洲市で60年以上にわたり親しまれてきた銭湯“珠洲温泉 宝湯”。その4代目を務める、橋元宗太郎(はしもと・そうたろう)さんにお話をお伺いしました。
[取材・構成 高橋 唯]
東京から戻った宝湯の4代目
僕、橋元宗太郎(はしもと・そうたろう)は、石川県珠洲市にある「宝湯(たからゆ)」という銭湯の4代目です。創業は昭和32年。もともとは井戸水を使っていたのを、200メートル掘り下げて温泉を引き、「珠洲温泉 鶴飼一号源泉」として開業しました。初代が明治期から芝居小屋や建設業、酒店など複数の事業を手掛けてきたなかで、銭湯は今も昔もずっと地域に根ざしてきた存在です。
僕が東京から実家に戻ってきたのは26歳のとき。東京から戻りたいと父に相談したら、「戻ってきても給料は出せないぞ」と言われて、冬は出稼ぎで酒造り、夏は旅館の仕事をして、という生活を4〜5年続けていました。けれど、子どものころから「風呂掃除して」「配達頼むぞ」と言われながら育ち、「宝湯を継ぐのが当たり前」と思っていた自分にとって、ここを継ぐのは自然な流れでした。
それでも葛藤は大きかったです。父に「俺の代で終わってもいい」って言われたときは、本当にショックでした。でも、そんな父の背中を反面教師にしながら、銭湯と向き合い続けました。使われていなかった別館を再生しようと決めたとき、2〜3階部分はゴミ屋敷のようになっていましたが、20トントラック20台分の荷物を排出して片付けましたよ。
アートが繋いだ、街との新しい縁
そして2017年。珠洲市で開催された「奥能登国際芸術祭」の展示会場のひとつとして、宝湯は写真家・石川直樹さんの作品発表の場となりました。もともと地域の人たちの生活に根ざしてきた場所ですが、このアートとの出会いによって、町内外の人々が再び宝湯に目を向けてくれるようになったんです。この出来事は、宝湯が新たに地域の文化拠点としての役割を担う大きな転機になりました。
少しずつではありますが、自分なりのやり方で温泉事業を軌道に乗せていったのが2023年。宝湯を経営していた法人の事業目的に宿泊業を追加し、2015年から個人事業で行っていた民泊を「簡易宿泊業」として法人名義で正式に登録しました。商工会議所にも通い詰めて、事業計画書を300枚以上書き、国の事業再構築補助金にも挑戦しました。コロナの影響もあり、一時は資金が急激に減って、沈みそうな舟のように追い詰められました。明けた後も浅いところをやっと進むような状態が続きましたが、休む間もなく、ひたすら漕ぎ続けていました。その分、充実感も確かにあったんです。
もう、あとはこれからだ。そう思っていた矢先に、あの地震が起きたんです。
元日の衝撃──町も暮らしも崩れた
2024年1月1日。能登半島地震。
その日は仕事を終えて自宅に戻り、ゆっくり過ごしていました。最初の揺れは震度5強。「ああ、また来たか」と思った瞬間、「ドゥドゥドゥ……」という震度3ほどの小刻みな揺れが続いて、今までにない感覚が不気味でしたね。震度5以上の地震が発生すると、僕は町の消防団員として巡回に出る必要がありました。だから、急いで活動服に着替えた瞬間、いきなり「ドカーン」という衝撃とともに震度6強以上の揺れが襲ってきたんです。気づけば、目の前で電柱が倒れてきて、自分はとっさに飛び退き、尻餅をついていました。けれど揺れは収まらず、地面の上で跳ねるように体が浮きました。お姫様抱っこされて、2メートル放り投げられるような感じ。今まで経験したどんな地震とも、まったく比べ物にならなかったです。
真っ先に、奥さんと子どもの安否を確かめるため、自宅から奥さんの実家へ向かいました。自転車に飛び乗って、「大丈夫ですかー!」と周囲に声をかけながら、津波警報も鳴るなか、全力で浜沿いを漕ぎ続けました。
途中、「母が下敷きなんです、助けてください」と必死に声をかけてきた人もいました。でも。そこは2階の屋根が丸ごと崩れ落ちていて、自分ひとりの力ではどうにもできなかった。しかも、津波も迫っていたから、とにかく「逃げてください」とだけ伝えました。
その人が1ヶ月後、避難所で「逃げろと言ってくれて助かりました」と声をかけてくれたんです。その言葉は、今でも忘れません。
家族の無事を確認し、そこから避難所生活が始まりました。最初の1週間は、本当に食料も水もなくて。チョコレートやキットカットを口にしながら、「カップラーメン持ってる人いいなぁ」と思っていたのを覚えています。

瓦礫の中から聞こえた「ちょろちょろ……」がくれた希望
そんななかで思い出したのが、「温泉はどうなったかな」ということでした。震災から1週間が経ったころ、瓦礫に覆われた源泉のあたりを見に行ってみたんです。そしたら、「ちょろちょろ……」っていう音が聞こえた。まさかと思って近づいてみると、湧き出していたんです、温泉が。
かつては地下7メートルからポンプで吸い上げていたお湯が、地震の影響で地上付近まで自然に湧き上がっていました。
その音を聞いた瞬間、「またここでやり直せる」って思いました。疲れ果てていた心が、温泉の音で動き出した。ホームセンターで配管を買い、自分の手で繋ぎ直し、1月のうちには湯を溜められるようになっていました。
2月には地域の被災者向けに無料の入浴支援を開始。3月からは復興事業者の宿泊受け入れも始めました。
5月から少しずつ立て直していた矢先、2024年9月には豪雨にも見舞われました。宝湯にも大量のヘドロと雨水が押し寄せ、ポンプも機械も一部損傷。床下にまで水が入り込み、復旧作業はまた振り出しに戻ったような感覚でした。
正直、心が折れそうになる瞬間もありました。それでも、「大丈夫?」「また入らせてもらうよ」と地域の人たちが声をかけてくれたり、お風呂に入れた人が「助かった」と言ってくれたりして、「やっぱりここを再建しなきゃいけない」と強く思いました。地域の人たちが、気軽に顔を合わせたり、話したりできる場所。そんな場所を、もう一度ちゃんと作りたいと思っています。
目指すは「世界一コンパクトで最高のリゾート銭湯」
これからの宝湯は、ただの銭湯では終わりません。自分が目指しているのは、「世界一コンパクトで最高のリゾート銭湯」です。まだ模索中で、どう形にしていくかは手探りな部分もありますが、面積が小さくても、コンパクトでも、細部にまでこだわり抜いた唯一無二の銭湯をつくりたいと思っています。
泊まれる銭湯として、観光と地域のコミュニティをつなぐ場所にしたい。言ったからには、必ずやり遂げます。「宝湯」は、僕にとって、夢を見させてくれる場所です。
F1と母がくれた、世界一への道標
なぜ自分がここまで「世界一」にこだわるのか。それには、ホンダのF1と、母から託された言葉が深く関わっています。
自分はずっとホンダのF1を応援してきました。批判され、失敗し、悔しい思いを何度も味わいながらも挑戦を続けて、ついには世界チャンピオンを掴んだホンダ。その小さな車体に技術をぎっしり詰め込み、限られたスペースで「世界一」を目指すあの姿に、自分はずっと情熱を重ねてきました。あの広告の言葉「数えきれない悔しさが、私たちを強くした。」は、今も自分の背中を押してくれる存在です。
宝湯も大きな施設ではありません。でも、小さいからこそできる「世界一」があるはずだと、ホンダの挑戦から教わりました。
そして、もう一つの理由は母です。自分が若いころ、母は62歳で亡くなりました。当時宝湯の経営がうまくいかず、まわりから心ないことを言われることもありました。そんな時、母のお葬式で母の友人が言ってくれた言葉があります。
「宝湯は、宗太郎君がきっと世界一の銭湯にしてくれるから、安心してください」
その言葉は、今も自分の胸に深く刻まれています。そして、自分の中で答えがひとつにはっきりした瞬間がありました。
「そうか、僕は世界一の銭湯を、お母さんのために作るんだ。」
大切な人に喜んでもらえるような、胸を張って「世界一」と言えるリゾート銭湯をつくりたい。
宝湯を続ける理由は、そこにあります。これは、自分自身の夢でもあり、母に贈る約束でもあるのです。
今、宝湯の現場で起きていること
現在、宝湯は10部屋・最大20名を受け入れられる簡易宿泊所として営業しています。今は復興関連の業者さんの利用が8割以上を占めています。それでも、週末には観光のお客さんをお迎えできる余裕もあります。もし珠洲を訪れることがあれば、ぜひ宝湯に泊まりに来てください。
一方で、どうしても避けて通れない課題があります。それは「人手が足りない」ということです。
朝4時に起きて朝食づくり、片付けが終わるころには予約の電話やチェックアウト。合間に請求書や領収書の発行、入金確認。昼を食べたら夕食の買い出し、15時にはチェックイン対応。その後は夕食づくりの補助と片付けで、終わるのは20時を過ぎています。正直、毎日ギリギリです。
仕事の量が多く、どうしても一人で回しきれない場面も出てきています。事務作業や電話対応が重なると、対応が遅れてしまうこともあります。風呂掃除は父が、部屋のシーツ替えや掃除は親戚が手伝ってくれていますが、それでも追いつかない状況です。
読者の皆さんへ──宝湯を続けていくために
こうして「世界一コンパクトで最高のリゾート銭湯」を目指しながら日々走り続けていますが、正直、自分ひとりの力では足りないところがたくさんあります。宝湯を守り、育て、この先も続けていくためには、皆さんの力が必要です。
もし珠洲を訪れる機会があれば、ぜひ宝湯に泊まりに来てください。それだけでも大きな励みになります。そして、「手伝ってみたい」「関わってみたい」と思ってくださる方がいれば、どんな形でも支えになります。
自分が掲げた「世界一」の夢は、ひとりでは叶えられません。
でも、誰かが応援してくれたり、関わってくれたりすることで、夢は現実に近づいていきます。
これからも宝湯で、湯を沸かし続けます。
一緒に、この場所の未来をつくっていけたら嬉しいです。
取材後記
珠洲市、そして宝湯に対する橋元さんの想いを間近で聞いているうちに、思わず涙がこぼれてしまいました。
「世界一のリゾート銭湯にしたい」という言葉には、これまでの苦労や覚悟、そして未来への強い希望がすべて詰まっていたように感じます。東京から戻り、宝湯を継いでからの道のりは決して平坦ではなかったと思います。それでも諦めず、数々の挑戦を重ねてきた橋元さんの姿には、確かな実行力と、人を引き込む力を感じました。
取材のはじめは淡々と話していた橋元さんでしたが、話が進むにつれて熱量にあふれた口ぶりへと変わり、最後には「情熱」という言葉が何よりもふさわしく感じられるほどでした。
また珠洲を訪れる際には、ぜひ別館に宿泊させてください。そして、もう一度お話を聞ける日を楽しみにしています。

