海沿いの小さな町・曽々木(そそぎ)は、観光の象徴だった「窓岩」を失い、古くから守られてきた文化財や家々も次々と倒れた。それから9か月後。再建の兆しが見え始めたところに、記録的豪雨が追い打ちをかけた。「なんで能登ばかり……」それでも灯を絶やすまいと動き出す曽々木地区自治会の会長を務める刀祢 聡(とね・さとし)さんにお話を聞いてきました。
私は輪島市町野町曽々木(まちのまち・そそぎ)地区自治会の会長を務める刀祢聡(とね・さとし)です。能登半島の小さな町・曽々木は、2024年1月1日16時10分の能登半島地震によって、壊滅的な被害を受けました。さらに9か月後には奥能登豪雨に見舞われ、田畑も家屋も土砂に埋まりました。
「なんで能登ばかり……」そんな声がまちに広がる中でも、私たちは灯を絶やすまいと歩みを進めています。
発災直後の孤立と食料確保
2024年1月1日16時10分、能登半島地震直後、曽々木は完全に孤立しました。崖崩れで国道やトンネルは塞がれ、唯一残った輪島市中心部や能登町に繋がる県道6号線も通行止め。「どこにも行けない」という現実が重くのしかかりました。避難所の棚は空っぽで、頼れたのは各家庭の正月用の餅やおせちの残りだけです。
「米はうちにある」
「野菜は持ってくる」
人々は声をかけ合い、食材を持ち寄りました。その姿に救われながらも、文化と歴史の象徴である窓岩が崩れ、平安末期からの仁王像を抱えた岩倉寺が倒壊したことで、人々の心からも力が抜けていくのを感じました。
象徴「窓岩」が崩れて泣いていたおばあちゃん


窓岩は高さ21m、幅15mの巨大な岩で、中央に開いた穴から夕陽が差し込み、海と空を切り取ったように見える景勝地でした。長い年月、日本海の荒波に耐え、この地を見守ってきた「ふるさとの顔」です。
震災発生直後、嫌な胸騒ぎがしてすぐに窓岩を確認しました。そこにあったのは「ない!」という現実でした。1月3日、あるおばあちゃんを家まで送り届けた際、その方は崩れた窓岩を見て泣いていました。観光名所以上に、窓岩は人々の心の支えだったのです。

1本の電話から繋がった支援の和
発災から2日後の1月3日、広島からボランティアの佐渡忠和(さど・ただかず)さんが駆けつけてくれました。道中タイヤがすべてパンクし、車を置いて崖を登って到着したと聞いた時は本当に驚きました。佐渡さんがNHK広島へ連絡を入れ、現地状況を伝えてくれたことが、奥能登の惨状を全国に発信するきっかけになりました。佐渡さんは今も能登に住み続け、片付けや祭りの準備などに関わってくれています。
阪神・淡路大震災を経験した人たちで構成されたNPO団体、東北の東日本大震災を経験された方々の協力など、震災経験が支援の襷(たすき)のように繋がっていると実感しました。
賛否を乗り越えた「曽々木大祭」
復興の真っ只中、「祭りをしたいがや」と私は総会で口にしました。賛否は大きくわかれましたが、「今だからこそやるべき」と議論を重ね、開催にこぎつけました。
「気持ちが沈んでいても仕方ない。いっときでも楽しさのなかに元気が出る瞬間がほしかった」
その思いで実行した祭りでは、面白い出来事がありました。ボランティア用に用意された1本の小さなキリコ(切子)。普段は男性が担ぐことが多いキリコなんですが、ほぼ女性たちだけでキリコを担ぐ場面も生まれ、長い間祭りに携わってきた私も初めてみた光景でしたが「こういう祭りもあるんやな」と嬉しく思いました。町民も「久しぶりに元気が出た」と笑顔を取り戻し、祭りが人と人を再びつなぎました。


復興の“希望の灯り”プロジェクト
現在、曽々木では窓岩をモチーフにした高さ1.8mのモニュメントを設置し、夜には明かりを灯す「希望の灯り」プロジェクトが進んでいます。設計は大阪電気通信大学大学院の学生が手がけてくれましたが、これもまた紆余曲折あり、曽々木海岸は国の名勝および天然記念物に指定されているため、何か構造物を建てるには文化庁の厳しい審査が必要で許可を得るまで1か月以上かかりました。
資金はクラウドファンディングや全国からの寄付で集められましたが、材料費高騰で当初の倍近く必要となりました。それでも、この灯りが観光客や支援者を呼び込み、まちの誇りを取り戻す象徴になることを願っています。
まだ見ぬ震災への備え

震災後、本当にたくさんのボランティアの方が能登に来てくれました。1日だけ作業して帰る人の力ももちろんありがたかったですが、やっぱり私たち被災者にとって何より心強かったのは、まちのことを気にかけて何度も足を運んでくれる方々の存在でした。再会のときに抱き合って笑顔で声をかけてくれる、そうしたつながりが大きな支えになり「自分たちは忘れられていない」と思わせてくれるんです。この経験は、今後どこかで震災が起きたとき、ボランティアに関わる人たちへの大きなヒントになるはずです。
私はこれまで何度も「国や行政が本気にならないといけない」と口にしてきました。それは誰かを責めたいからではありません。行政の方々もまた被災者であり、現場で一生懸命に動いていることは理解しています。でも今の制度や対応だけでは、救えない人がたくさんいるのです。
私にとって一番寂しいのは、人がまちを出ていく話を聞くことです。「出て行きたくて出る」のではなく「出ざるを得ない」人が多いんです。地震や水害のせいで元の土地に建築許可がおりず、やむなく金沢など別の場所に移らざるを得ない。
この地区の外でも、あの豪雨で家がぺったんこになって土砂に埋まった場所があります。幸い人的被害はなかったけれど、そこはもう「家を建てたらダメ」と言われる。「じゃあ、どこに家を建てたらいいの?」というのが現実です。
私が求めているのは、制度の中で切り捨てられてしまう人へのきめ細かなケアです。特に長期的な住まいの支援やコミュニティを維持する仕組みは、震災直後だけではなく数年先まで必要になります。
だからこそ「国や行政が本気になる」という言葉は、批判ではなく未来への呼びかけなんです。次に災害が起きても、誰もが住みたい場所で生きられるように。そのために本気になってほしいと願っています。


取材後記
待ち合わせ場所へ向かう途中、「通行止め」の標識に不安を抱きながら車を進めました。『輪島市ふるさと体験実習館』に辿り着くと、20名近いボランティアの皆さんが休憩・談笑しているところで、初対面にもかかわらず私にスイカを振る舞ってくれました。
崩れた窓岩を「ハート岩」と呼び愛着を込める地元の人々、そこに共鳴するボランティアの姿に触れたことで、私自身も曽々木の一員になれたような感覚を覚えました。

