今回は、2024年1月1日の能登半島地震で甚大な被害を受けた珠洲市正院町で、100年以上続く理容店「ヘアーサロン HEISHI」の4代目、瓶子明人(へいし・あきひと)さんにお話をうかがいました。地域で廃業が進むなか、町づくりの担い手として復興への思いを語ります。みんな祭りが好きな地域といい、“お祭り男”宮川大輔さんへの期待も…。
「地元の人が髪を切れない状況だけは作りたくなかった」
珠洲市正院町の理容店「ヘアーサロン HEISHI」4代目、瓶子明人(へいし・あきひと)です。2024年の地震で自宅兼店舗が全壊判定を受け、いまいる仮設店舗では25年1月16日から再スタートを切りました。
タクシー会社の社長さんが土地を提供してくれて、珠洲市が中小企業基盤整備機構の補助金を活用して建物をたててくれたんです。歯医者さんと和菓子屋さんと並んで営業しています。
私の店はもとの店より広くなって、40平米ほどあります。椅子とか使えるものは全部、前の店から持ってきました。自分自身は隣町の蛸島町の仮設住宅に住んでいて、車で5分ほどで来られる距離です。

震災後、店舗は使用不能の状態でした。水も通らなかったんです。
でも、避難所にいる間に「髪の毛を切りたい」という要望が出てきて、地震から10日から2週間ほど経ったくらいに、掃除して再開しました。水が出ないので井戸水を汲んだり、店のボイラーに直接外から水を配管回してもらって店の中だけ水が出るようにしたり。「だましだまし」営業していました。
余震もあって、いつ潰れるか分からない怖さもありました。でも、お客さんには、店の状態とかはあまり話さなかったです。

100年以上続く床屋「レールは敷かれていたけど…」
理容店は曽祖父の代から続いていて、僕で4代目になります。「HEISHI」という屋号は、うちの「瓶子」という名字からきています。珍しい名字ですよね。
100年以上続く店というと立派に聞こえますが、正直なところ、子どものころから「お前が継ぐんだよ」という空気はありました。高校を出たら理容学校に行って、その後は住み込みで修業して……というレールが敷かれていた感じです。
ただ、不思議と反発はなかったんですよね。25歳のときにこの地元に戻ってきて、それから17年。42歳になりましたが、気がつけば珠洲の床屋では一番若手になっていました。

正院町では、およそ8割の建物が解体されることになり、住める家は100件ほどしか残っていません。そんななか、地元に残ると決めて、ここにいる人たちが髪を切れないという状況になったら困るなぁと。
地域には床屋がもう一軒あったんですけど、全壊してしまって金沢に行きました。市内でも何件か床屋を辞めた方がいます。この1年間、そんなことでなんとか営業を続けて、いまは仮設店舗です。
正直、今は仕事がちょっと忙しくて、この町がどう変わっているのか追いつけていない部分もあります。固定客は3〜4割、震災前と比べて減りました。新規のお客さんとして、解体とかの作業員の方たちも来てくれているので、多少助かっていますが。

家族は金沢へ。釣り好き、二足のわらじを夢見る
家族にも大きな変化がありました。
うちの子どもたちは3人いるんですけど、震災があって、双子の長男は金沢で郵便配達員として就職することになり、長女は大学に、次女は金沢の中学校に入学することになりました。教育環境を考えると、こっちの学校は生徒数が少なくて、かわいそうだったからね。
25年の3月末、妻と3人の子どもたちが金沢に引っ越して、僕は一人になりました。月に一度くらいお互いに行ったり来たりできればいいかなと思います。急に寂しくなりましたけど、本当に頑張らなきゃならんなと思って、本当に仕事、仕事で頑張っています。

店舗の再建以外にも切実な願いがあります。それは釣りです。
震災から一度も釣りに行けていません。船の係留場所も崩れてしまって。本当に釣りに行きたいです。すぐそこに川があるんですけど、その川に自分の船を停泊してあるんです。
例年なら4月に船を降ろして10月まで釣りを楽しんでいました。特にアオリイカの時期(9〜10月)には「イカの人」と呼ばれるほど熱心に通っていました。朝早起きして、2時間ほど釣りをして、7時ごろに帰って仕事をするというルーティンが日常だったんです。それが今は完全に絶たれています。

単なる趣味の遊びではなく、収入にもなるかなと考えています。ただ、今は遊んでいる場合じゃないですしね。将来的には遊漁船の免許を取って、理容と漁業の二足のわらじでやっていけたらいいなと思います。
この地方には、釣りが好きな人がたくさんいるんですよ。一緒に行きたいと言う人がいれば乗せていくこともできますし。すぐそこまで降りれば大きなスズキが釣れるし、魚種も豊富です。田舎はそういうこと(釣り)するくらいしか、いい場所がないですからね。
歓迎! 『お祭り男』宮川大輔さん。正院町の未来へ
「正院町未来会議」という町づくり協議会の共同代表も務めています。2025年2月に立ち上げたばかりの組織です。4月20日には春祭りを企画して、地域のみなさんに食事を振る舞ったのですが、人手が足りないのが悩みです。ボランティアの方々の力も借りながら、地域の絆を深める活動を続けています。
若手のワーキンググループも作りましたが、ここでもマンパワーが決定的に不足しています。集まっても5〜6人が限界で、もっと多くの若い力があれば、意見を出し合いながら、スピード感のある町づくりができるのですが。
今、地元の人たちとの話題はもっぱら住宅再建の坪単価ですね。震災前は80万円/坪だった建設費が、今は150万円/坪にまで高騰しています。物価上昇もあって、「これでは家が建てられない」という声をよく聞きます。

正院町から離れていった若い人たちにも、ぜひ戻ってきてほしい。一時的に帰省するだけではなく、ここで生活してもらえるような基盤づくりを真剣に考えています。
そのために、キリコ祭りは地域のアイデンティティとして特に大切にしています。2024年は、私が総取締役を務め、土砂降りのなかでもキリコ祭りを開催しました。周囲から「こんな状況でできるのか」と言われましたが、「こんな時こそやらなければならない」と頼み込んで実現させました。他の地域では祭りが中止になったところが多かったのですが。

結果的に「やってくれてよかった」という声がほとんどでした。この町の人々は祭りが大好きなんですよ。正院の人は基本、祭りのために動きます。祭りには必ず帰ってくる。だからこそ、帰ってくる家がなければいけないんです。
ただ、人口減少で祭りを運営する人材も不足しています。これからは臨機応変に、ほかの地域から来た人たちにも祭りの運営に参加してもらえるような仕組みが必要かもしれません。

「宮川大輔さん(日本テレビの『世界の果てまでイッテQ!』で『お祭り男』として、世界のさまざまな祭りに参加。その熱狂的な様子を伝えている)のような有名人が来てくれたら盛り上がるのに」なんて冗談も言っていますが、地域の祭りをどう存続させるかは、切実な課題です。
町の青年福祉委員会で副委員長も務めていて、グラウンド・ゴルフ大会や町民運動会の企画も担当しています。震災でグラウンドが使えなくなってしまったので、10月に隣町の蛸島町でグラウンド・ゴルフ大会を開催しようと計画中です。こうしたイベントも町の文化として大事にしていきたいですね。

具体的に必要な支援
地域の復興とコミュニティ維持には、さまざまな形での支援が必要です。私たちの活動にご協力いただける方がいらっしゃれば大きな力になります。
町づくり活動の支援(外部からも歓迎)
- 正院町未来会議の若手ワーキンググループへの参加
- 祭りなど地域イベントでのボランティア活動
- グラウンド・ゴルフ大会などの地域スポーツ活動の運営協力
- キリコ祭りなど伝統行事の準備・運営をサポートしてくれる人材
- 「お祭り男・宮川大輔さん」に祭りへ参加してもらうプロジェクト
釣り関連の支援
- 被災した船の係留場所の修復
- マリーナ開発に関するノウハウ提供
理容業の持続可能な展開
- 仮設住宅に住む高齢者や足の不自由な方への送迎サービス構築
- 出張理容の実施に関するノウハウ

若い人への期待「このまちの最後の床屋になってもいい」
仮設店舗での営業許可は3年間です。この期間内に店舗再建の道筋をつけなければなりません。正直なところ、将来に対する不安はあります。
復興工事が進み、作業員の方々が減っていくと、お客さんの数も確実に減っていくでしょう。
ただ、髪を切る需要は少なくなっても、なくなることはない仕事だと信じています。
自分では困ったことがあっても「助けて」と言うのが苦手なタイプです。震災後も、ボランティアの方々には手伝いを一度も頼んでいません。自宅の片付けなども自分たちで行いました。高齢者の方は遠慮なく支援を求めればいいと思いますが、若い人がいる家庭はできるだけ自分たちでやっていくものでしょう。

今後は床屋だけでは生計を立てるのが難しくなるかもしれません。それでも、この町で最後の床屋になってもいい。地域の人々の身だしなみを整える役割を最後まで果たしていきたいと思っています。
家族は金沢に住み、自分は正院町で一人暮らし。どう変わっていくかは、ちょっとわかんないですけど。でも、やっぱりこの町が好きなんです。地元に残るって決めて、ここに住んでる人たちのために、なんとかせんとなって思ってます。
人口がもともと少ないところに、震災でまた人が減ったので、残った人たちが頑張らないといけないんですけど、限界も来るとは思います。難しいですよね、口で言うだけじゃね。

正院に戻ってきてもらえるような町にしないといけないし、その時だけ帰ってくるんじゃなくて、生活してもらえるような基盤を作る街にしたい。住みやすい街づくりも考えていかないといけない。
とりあえず、やってみなけりゃわからんってことで、前に進むしかありません。3年以内になんとか店舗を再建したいなと考えています。復興と再生は、この地域が好きな人たちみんなの力があれば、できると信じてますよ。祭りのときには、みんな帰ってくるんですから。

「助けて」と言わない被災者に関わる(取材後記)
「カスハラ」(カスタマーハラスメント)という言葉が流行しています。「期待通りに何かをしてくれない」ことに腹を立てがちな風潮からくるものです。
一方、瓶子さんは、困っていても「助けて」と言うのが苦手なタイプだと打ち明けます。「能登の人たち、みんなそうでは?」という話にも。
この二つの世界、どちらも現実。どこで切り離されているのでしょうか?
いまは家族と離れて暮らしながら、「この町の最後の床屋になってもいい」と語る瓶子さん。この地の復興はいま、こうした地域と自分を同等に考えられる人たちで、なんとか持ちこたえているようにも映りました。
この記事を書いている「シロシル」が、よくある取材と大きく違うのは、「関わりシロ」(具体的支援)をじっくりと聞き出すこと。それが瓶子さん相手に正直、とても難しかったです。
それだけにインタビューの終盤にポツリと語った「釣りをまたやりたい」は本音です。なんとか叶えられないものか、と強く思いました。
祭りへの思いも一緒。声を決して大にしては言わない人たちに、それでも「関わっていく」ことが求められている能登の復興です。お祭り男・宮川大輔さん、番組スタッフの皆さん。ぜひ、お待ちしています!(野上英文)

高校生の取材同行記
瓶子さんと父は40代前半で変わらない年代ですが、「地域で最年少の理容師」ということにまず、驚きました。そんな瓶子さんが地震直後に「髪を切りたい」という地域のみなさんの声を受けて、家が壊れるなか応えていった話。外からは知り得なかった話でした。
祭りへの思いも印象的でした。「正院の人は祭りのために動き、祭りには必ず帰ってくる」という言葉。物理的な復興だけでなく、地域の文化や思いを守ることの大切さを学びました。
一方、話ぶりからは厳しさも同時に伝わってきました。仮設店舗での営業自体には支障がないようにも見えましたが、仮設住宅との往復や3年という限られた再建期間から、これからの険しい道のりを感じます。同行取材を通じて、ニュースからだけでは伝わらない復興の現実を肌で感じました。
地元の人たちだけではなく、移住してきた人やほかの地域の人々も地域づくりに参加できる機会が必要ではないか──。瓶子さんの考えに同感です。なにより「人が復興のキー」だと思います。(高校2年生、野上文大朗)

