今回は、能登復興の拠点として多くの人に利用されている、のと里山空港の仮設飲食店街「NOTOMORI」(ノトモリ)で業務執行理事を務める笹谷将貴(ささたに・まさたか)さんにお話をうかがいました。
「地面が跳ねた」──命からがら逃げた地震の記憶
復興の拠点となる施設「NOTOMORI」は、2024年11月2日にオープンしました。飲食店やコワーキングスペースを併設したこの施設は、仕事場として、または食事を楽しむ場として、さまざまな人が行き交うスポットとなっています。
私、笹谷将貴(ささたに・まさたか)は、一般社団法人NOTOMORIの業務執行理事として、運営のあらゆる面をほぼひとりで担いながら活動しています。
とはいえ、もともと故郷の能登で働いていたわけではありません。能登半島地震は、多くの人の人生を変えました。私も、そのひとりです。
当時、東京で働いていた私は、正月ということもあり、妻と1歳の子どもと3人で輪島の実家に帰省していました。
揺れの直前、けたたましく鳴り響いた緊急地震速報。私は裸足のまま子どもを抱えて、外へ飛び出しました。
地面は「トランポリンのように跳ねた」と表現したくなるほど激しく揺れ、周囲の人たちは立っていられず、四つん這いになっていました。
視界の隅では、ビルが倒れる瞬間が見え「ここで死ぬかもしれない」と心の底から恐怖を感じました。

家族そろって避難することができたのは、本当に運が良かったと思います。避難所では1月3日ごろまで過ごし、4日には県外へ脱出。
後ろ髪を引かれる思いは強く残りました。もし子どもがいなければ、残って自分にできることをやっていたかもしれません。
でも、父親として子どもを守るため、脱出する決断をしました。
その一方で、輪島に残る家族や友人に対して「自分だけ先に出てしまって申し訳ない」という思いもありました。
東京の職場に戻ってからも、能登の家族や友人のことが頭から離れませんでした。
そしてあるとき「今、能登に戻らなかったら、きっと死ぬときに後悔する」と、強く思ったのです。
こうして、2月14日、能登に戻る決意を固めました。
現在は、家族と金沢で暮らしながら、能登へ通う生活を続けています。
食べて、話して、繋がる場所──NOTOMORIの役割
NOTOMORIには、6店舗の飲食店が入り、美味しいご飯やドリンクを提供しています。
また、Wi-Fiも完備されており、作業や会議に利用できるコワーキングスペースとして、さらには地域の皆さんやボランティアの方々の食事の場としても、多くの方々にご利用いただいています。

能登では、会議ができる場所が本当に少ないのが現状です。
かつては旅館の広間などを活用することもあったかもしれませんが、現在は地震による被害で、そうした施設も使用できなくなってしまっています。
そんな状況の中で「食べられる場所」があるということ自体に、大きな意味があると感じています。
美味しいご飯が食べられて、きれいな空間でひと息つける──それだけでも、人の心を癒す場になるはずです。
NOTOMORIは、復興のための施設であると同時に、一般の方々にも心地よくご利用いただける場所でありたいと考えています。
NOTOMORIを情報と人の交差点に
これからNOTOMORIが目指すのは、単なる“場所”としての役割を超えた「情報と人が交差するハブ」としての機能です。
復興に関する情報って、今ほとんど発信されておらず『どこで何が起きているのか』『どんな団体がどんな支援をしているのか』が、誰にもわからない状態です。
NOTOMORIに情報を集約して『ここに来れば、能登の“今”がわかる』という仕組みを作りたいんです。SNSなどを通じた情報発信はもちろん、実際に会って話せる場所にもしていきたいと考えています。
『こういうことやりたいんだけど』『一緒にやれる人いないかな?』といった相談が気軽にできて、そこで“つながり”を生み出せる場所にできたら……。
NOTOMORIが人々をつなげ、活動を加速させる場になれば、能登の復興も加速する。私はそんな未来を思い描いています。
地域を支える“見えない仕事”に、あなたの力を。
いま直面している一番の課題、それは「人手不足」。
特に必要としているのが、経理や総務など、バックオフィス業務を担ってくださる方です。
帳簿をつけたり、書類を作成したり、備品を管理したり。そうした“表には見えない業務”が、日々の運営を下支えしています。
本来であれば、それらを専門的に担当してくださるスタッフが常駐していてほしいところですが、現実にはそういった人材がいません。
今は、私ひとりで経理や広報活動はもちろん、掃除や掲示物の設置といった管理業務まで担っているのが実情です。
そのため「せめて経理まわりだけでも、どなたかにお願いできたら……」と切実に感じています。

もちろん、地元の方にお願いできれば理想ですが、ほとんどの方がまずは自分自身の生活再建やお仕事で手いっぱい。
さらに言えば、地元の仕事自体も人材不足で、地域全体が「人の手」を求めているのが現状です。
だからこそ私は、能登の外からでも力を貸してくださる方を探しています。
取材後記
能登半島地震当日のお話は、あまりにも衝撃的で、うまく言葉が出てきませんでした。
しかし、実際に被災し、死を覚悟するような瞬間があったことを、しっかりと受け止めなければならないと感じました。
私が「勇気のある決断、行動ですね」と声をかけると、笹谷さんは「当たり前のことをしているだけです」と。
その姿には一切の謙遜がなく、本当に当然のこととして行動されていると、ひしひしと伝わってきました。

そして最後に、笹谷さんはこう朗らかに笑われました。
「戻ってきた当初は、家族や友人のためになればという思いだけでした。けれど、その行動が巡り巡って、能登という土地に住む人々のためになっているのなら、うれしく思います」
自然を前に、人の力はとても小さなものかもしれません。
けれど、誰かを思い、行動するその姿は、多くの人の心を動かし、協力の輪を広げ、やがて大きな力へと変わっていく。
私も、その一助となれたなら——。そう心から思える、忘れがたい取材となりました。

